入院中は病室の空き具合や茉友香ちゃんの体調の具合によって、複数のベッドが並ぶ大部屋と個室を行き来した。大部屋では同病と闘う子と付き添いの家族がいて励ましてくれたが、見舞い客を含めて人と接することも増える。あるとき、事情を知らない人が茉友香ちゃんを見て「生後何カ月ですか?」と聞いてきた。この頃、体重は7キロを切っていた。
流した黄色い涙
茉友香ちゃんの状態は日に日に厳しいものになっていく。この頃のノートには血液検査の結果を淡々と記す日記が連続しているが、基準値が0.2~1.2mb/dLとされるビリルビンの項目には「28.4」や「30以上」といった桁違いの数字が記されている。意識が朦朧とするなかで茉友香ちゃんが流した涙は黄色かったとも書かれていた。
一人は1才半くらいで黄胆が強いという
もう一人は8才くらいで ねつと黄胆。
2人ともみるからに元気そうでうらやましかった。
この2人の母親は茉友香を見て いずれ自分たちの子も茉友香のようになるのかとものすごく心配し おそれていた
私は何も言ってやることができず ただ「まだ元気そうだからだいじょうぶですよ」というのが精一杯だった。>
(1990年12月19日)
平成2年の年末も一時外泊の選択肢はなかった。状態は厳しい。それでもまた回復して、退院できることを願った。
急変は平成3年=1991年の2月末に訪れる。身体中からの出血が見られ、茉友香ちゃんの呼吸が明らかに普通でなくなった。緊急で酸素テントに入れ、輸血する。少し長めだが、この日の日記をすべて引用したい。
輸血 約1000cc
呼吸が一段とわるくなり メイロン、カルチコールを点滴からいれても効果ない。
○○先生に今度こそ本当に覚悟するように言われた
人工呼吸器をつけても数時間もてばよいと言うことだった
でも母親の私にはたとえ数時間でももつのなら
心臓の動いているうちは反応がなくてもそばにいたかったため 夜呼吸器をつけてもらった。
意識がまったくなくなる30分くらい前に 茉友香は「おうちへ帰りたい」と一言いった。
それ以後は一言もしゃべらず挿管して10分くらいで自発呼吸もなくなり 瞳孔も開き 目もとじなくなり
本当にただ心臓だけが動いていた
挿管すれば呼吸が楽になりもとにもどるとばかり思っていたのに この時ほどショックは大きかった。
もうしゃべることもわらうこと、泣くこと、動くこと
何もしてくれない。
そばにいて「まゆちゃん」と呼んでも何も反応してくれない。
それでもまだ茉友香は生きている
心臓は動いている。
まけてはだめ 茉友香がんばって。
一生けん命 手足をさすったり頭をなでたりしました>
(1991年2月28日)
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