黄色い涙を流す幼女を看取った母の闘病手記 胆道閉鎖症で亡くなった娘と向きった4年間

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それでも今回もなんとか峠を越えることができた。ちょうどその頃、世間では胆道閉鎖症を患った1歳児・杉本裕弥ちゃんへの生体肝移植が話題になっていた。日本初であり、世界でも4例目の生体肝移植だ。ノートにも言及がある。

<このころ杉本裕弥ちゃん生体肝移植
 生体肝移植について私は それで100%完治するのならすぐにでもやりたい。
 でもまだ医学はそこまでいってない
 また傷つけて えらく痛い思いさせるのはあまりにも茉友香がかわいそう。
 それよりも もっとよい薬ができることを願う。>
(1989年11月22日)

手術は無事成功したものの、杉本裕弥ちゃんは9カ月後に急変して亡くなっている。そのことを踏まえて書いたものなのか、日付けのタイミングで書いたものなのかはわからない。

栄養が取れず痩せ細っていく

Aさんは血液検査のたびにビリルビンの値をメモしているが、体重も頻繁に記録している。ノートに残る茉友香ちゃんの最高体重は1万0815グラム(約10.8キロ)。1989年11月22日の記録だ。ここから少しずつ下降線を描くようになり、体調も悪化していった。

<体重 9660g
 超音波検査で あきらかに腹水がたまっているとのこと>
(1989年12月4日)

<電解質のバランスがくずれ カリウム不足で補正する。
 少量の鼻出血。
 このころはもうほとんどおすわりもできずねたきりのようになっていた
 せっかく ついこの間まではつたい歩きまでしていたのに>
(1989年12月17日)

<とにかくぐったりしている
 「まゆちゃん がんばって! えらいね」というと「うん」とうなずくだけで あとはまったくしゃべらない。>
(1989年12月18日)

2歳の誕生日もクリスマスもケーキで祝うことは叶わなかった。鼻から入れたチューブからわずかなミルクを摂取する我が子。平成元年から平成2年に移るこの年は、年末年始の外泊もできなかった。家族や2人目の子のことも心配だが、身体はひとつしかなく、茉友香ちゃんに付き添う仕事は自分にしかできないと自分に言い聞かせる。

そして、1990年春の3歳の誕生日もケーキで祝うことはできなかった。絶食と吐血。発熱を繰り返し、身体中にチューブが差し込まれた状態が長く続いている。

ストレスのせいか夏頃には髪が抜けるようにもなった。絶食が続く日々。それでも食欲があることは、日々の記述から読み取れる。

<茉友香はNGチューブからミルクをいれるだけで 口からはまったくのんだりたべたりできなかった
 大部屋では皆それぞれにごはんやおかしをたべたりしている
 私はできる限り茉友香にみせないよう努力した。
 しかし本人は自分はたべられないのに人がたべているのをみたがった。
 親の私からみれば何とも残酷だった
 でもとにかく「みたい」といって 茉友香はきかずじっと人がたべているのをみていた。>
(1990年8月14日)
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