「パレスチナ紛争」前に取られた"ユダヤ人の奇策" 混沌化する「中東情勢」、問題の源流を読み解く
それからアメリカ全土にわたっての、大巡礼旅行に乗出す。彼は英語がおそろしく下手だったから、そのために疑惑を惹くことをさけて、聾唖者でとおした。
それでも無数の工場を訪問し、圧延機、圧縮機、旋盤、その他の工作機械の全コレクションを、屑鉄の値段で買うということをやってのけたのである。ただしアメリカの法規が、彼の仕事をいちじるしく複雑なものにした。
きわめて特殊なある工作機械に関しては、こわれものとして送り出されるまえにその所有者によって解体され、使用不能にされねばならない。必要不可欠のそれらの機械を入手するために、スラヴィーヌは拾い屋の一軍団を待機させ、彼らが合衆国の主要な屑鉄置場を駆けまわって各種の部分をかき集めてきた。
ほんの小さなねじ止めでも、スラヴィーヌの司令部に送られる。彼の司令部は黒ハーレム人街のまんなか、パーク・アヴェニュー2000番地の、古いミルク・ホールだった。ここで、金銀細工師の忍耐づよさをもって、スラヴィーヌはその機械を復原していた。
この驚くべき事業の結実として彼が復原に成功した機械類は、小銃の実包5万発を毎日生産する設備と、機関銃の大量生産に必要な1500の作業を行ない得る工作機械と、88ミリ迫撃砲の砲弾のための旋盤である。屑鉄の値段で、つまり重さで買い付けたから、ぜんぶで200万ドルだった。何箇月かまえには、まだ新品のこれらの品は40倍以上の値段だった。
機械をパレスチナ側にいれるための芸当
機械をパレスチナにいれるのには、まだもう1つの芸当を演じなければならない。数も分量も巨大だから、そのまえにエフダ・アラジが用いた例の偽装戦術に訴えるというわけにゆかないのである。
全能力をあげて機械を復原したスラヴィーヌは、こんどはそれらを、最後のねじ釘、最後のボルトにいたるまで分解した。仕事をおわったときには、約7万5000点の部品が彼の指ではずされた勘定になる。彼は各部品について、自分で工夫した暗号による目録をつくった。
次に中身を偽造して、荷物が目的地に到着してイギリスの検閲をうけたさい「織物機械」という記載に合致して見えるように包装した。何百トンもの資材の輸入だが、スラヴィーヌは織物の機械35トンの輸入についてのささやかな公的許可を、空想上のアラブ人企業家の名義でもっていただけだった。
すべての部分品が巧妙に贋の名をあたえられ、ごちゃまぜにされていたから、どんな天才的な工学者もその真の性質を見抜くことはできなかったろう。そのうえ検閲はふんだんな賄賂のおかげで、大目に見ることが確約されていたから、どの箱も困難なしにイギリスの税関をとおることができたのである。