「パレスチナ紛争」前に取られた"ユダヤ人の奇策" 混沌化する「中東情勢」、問題の源流を読み解く
共産党の監獄で辛うじて生き残ったこの41歳のロシア系ユダヤ人の署名以上に、この部門で権威の高いものは考えられなかった。
パレスチナに着いたとき後進地域にはこの上なく貴重な肩書――工学士――をもっていたハイーム・スラヴィーヌは、その物理、化学についての識見によって、たちまちハガナで重要な役割を演じるようになっていた。
昼はパレスチナ最大の発電所の責任者をつとめ、夜はレホヴォットのアパルトマンの台所でTNT火薬を練り、手榴弾製造のための冶金実験を行なった。
彼がベン・グリオンに手紙を書いたのは、ヤルタ会談に出席したアメリカの高官がこの老指導者に秘密を洩らしてから、わずか数週間ののちである。ベン・グリオンの脳裡をそれいらい離れなかったことは、アラブ人との力の試煉にその民をいかに準備させるかだったから、スラヴィーヌの書簡は運命の合図、といったものだった。
ニューヨークへと向かう
ただちにニューヨークに行け、と彼はスラヴィーヌに命じた。ニューヨークでは、合衆国でもっとも有名で富裕なユダヤ人諸家族の代表者と、接触できるようにしてあった。
その人物、ルドルフ・ゾンネンボーンは2つの情熱しか人生を知らない男で、1つはシオニスムであり、もう1つは家業の化学工業である。
ベン・グリオンの依頼に応じて、彼は数年まえからアメリカのシオニストの指導者たちを集め、ゾンネンボーン・インスティテュートと当時すでに呼ばれていた一種の協議会をつくり上げていた。口のかたいことでえらばれた人びとだが、その会員は地理的産業的に見て全アメリカの代表の観を呈した。
彼らの協力を獲て、スラヴィーヌは仕事を開始した。彼はまずホテルの一室に引きこもって、雑誌「技術機械」のバック・ナンバーを読みふけった。この雑誌の存在については、たまたま新聞雑誌売場の飾窓で知ったのである。無数の挿絵を研究したあげく、彼は主要な武器の製造に必要なすべての工作機械の特徴を、暗記するまでにいたった。