しかし興味深いことに、申し込む際に「期待(希望)にあふれた」メールを寄越す人のほとんども、またすぐに姿を消してしまう。恐らく、哲学とは、その響きのようには、ロマンチックなものではなく、地味で、手堅く、退屈で、それほど美しくないもの、しかも徹底的に役に立たないもの、ということがわかっていないからでしょう。
ここで話を戻して、哲学において「真理」とは何かは、すでに哲学の議論すべき1大テーマであって、天文学のように、遺伝子工学のように、大脳生理学のように、万人に(少なくとも研究者のあいだで)共有されているもの、前提されているものではない。
科学においては、A、B、Cという理論あるいはデータのうち何が真理かは、確かに専門家のあいだで揺らぎがあるでしょうが、その方法すなわち、何をもって真理とするかの基準はそれほど揺らいでいるはずがない。しかし、哲学においては、そもそもこれが揺らいでいるのであって、完全に対立的な基準を掲げている哲学者も珍しくありません。
基準のない王国をさまよう
もちろん、哲学固有のテーマはあります。それは、「存在」であったり「時間」であったり、「自我」であったり、「善悪」であったり……するのですが、こうしたテーマへのアクセスの仕方どころか目標さえはっきりしない。すなわち、「存在」や「時間」や「自我」や「善悪」という概念に関しては、真理の基準が揺らいでいるどころか、何をもって「存在」とするか、「時間」とするか、「自我」とするか、「善悪」とするかの基準(意味の基準)ですら、ほぼまったくないのです。
実際、「哲学塾」では、西洋哲学を代表する古典哲学書を読んでいますが、哲学者によって主張することがみな違う。サルトルはハイデガーのすべてを否定しているように見え、ハイデガーはフッサールのすべてを批判しているように見え、キルケゴールはヘーゲルのすべてを嫌悪しているように見え、ヘーゲルはカントのすべてを軽蔑し冷笑しているように見え、カントはニュートンやライプニッツが完全に間違っていると主張しているように見え、二―チェに至っては、プラトン以降の西洋哲学を総じて抹殺したいように見える。これで、どうして「真理」が学べましょうか?
そこで、てっとり早く、あるいは唯一の真理へのロマンチックな思いを込めて、真理を知りたいと願っている人は、躓いてしまう。いや、真剣に躓くならまだしも、躓くまでに至らずに、「わからない」として、「アホらしい」として、あきらめてしまう。
ここで、この基準のない王国をさまよって、それこそ「おもしろい」と感じる人は、哲学の適性がわずかにでもあると言えましょう。しかし、これだけではダメです。こういう人のうち、頭が適当によくて何でも調べて記憶することが好きな人は、それぞれの学説をきれいに並べ直してそれらのあいだに脈略をつける哲学史家になるといい。
あるいは、多様な哲学説の間を泳ぎ回った末に、無事自分に適した港に漂着して、カント屋(カント研究者)やヘーゲル屋(ヘーゲル研究者)やハイデガー屋(ハイデガー研究者)になればいい(と言っても、それぞれ一流になるには大変な労力がかかりますが)。
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