サハリンに廃墟として残る戦前の日本製紙工場 豊富な資源を目当てに設立、現在もその姿を残す

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工場構内に炭鉱の坑口があり、工場の大事な燃料である良質な石炭をその場で入手できた。 広大な施設に豊富な森林資源、鉄道もあり、知取川の支流から工場も近いので製紙づくりにはうってつけの地形だ。

内部を見渡すと、この工場の特徴はほかの工場より奥行きのある空間が多いと感じた。川から原材料である木材をいかだで運んでいた。

調木、パルプ生成、抄紙、仕上げという生産ラインが直線状に整理されていて、ほかの工場より圧倒的に効率的に進化していた。まさに、製紙工場ができるために誕生した町といっても過言ではない。

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ホルムスクの工場跡地。ほかの工場と比べて屋根がなく、マカオのカトリック大聖堂のように壁だけが残っている場所が多い

昭和2年から操業開始したということは、敗戦までの18年しか動いていなかったことになる。

とはいえ、この工場は戦後の製紙工場の発展において、重要なものだったと感じた。

残念ながら、こちらの工場は、煙突を残して取り壊されてしまった。

鉄道の便のよさと不凍港

最後にホルムスク、日本名で真岡という町だ。間宮海峡に面した、水産業が盛んな町だった。 ここもやはり製紙工場ができると急発展した町だ。

ホルムスクは港湾都市であり、市場も多く、今回訪問したサハリンの街の中では一番活気があった。1945年8月20日、終戦後にソ連軍の襲撃を受けて多くの日本人が犠牲になったところでもある。

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ホルムスクの港湾。州都のユジノサハリンスクがビジネス街なら、ホルムスクは商業の街。日本でいうところの大阪のようなイメージだ

そんな街に存在した真岡工場。1919年9月操業開始した。他の工場では、周りに何もなかったが、真岡は割とすぐのところに住宅地がある。

恵須取や知取工場のように水もきれいではないし、土地も広くなく、森林も多くない。資源には恵まれていない。

それでも工場ができたのは、鉄道の便と、なにより冬でも港が凍らない不凍港(ふとうこう)だからだという強みがあったようだ。工場の建設にあたって、配慮された点は、雪解けの水をダムに貯水して工場用に使ったという。

もともと真岡は木造の工場だったが、初代工場は大火災になって、のちにコンクリートに建て替えられたそうだ。

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