日本人だけが8月15日を「終戦日」とする謎 各国の思惑で終戦日はこんなにも違う!

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ここで関東軍は共産党軍による武装解除を拒否した。関東軍は共産党軍に敗れたのではなく、ソ連軍に投降したという意識があったからだろう。防衛庁戦史双書『北支の治安戦(2)』(防衛研修所戦史室)によると、関東軍が武装解除命令を拒んだ事で中国共産党軍は関東軍に攻撃を仕掛け、8月15日から11月末までの間に戦死した日本軍将校の数は2900名に上ったという。

このことからすれば、中国大陸で戦っていた日本軍はそれぞれ2つの勢力から武装解除を受け、支那派遣軍の終戦の日は明確だが、関東軍の終戦の日は明確ではない、という奇妙な形となっている。なぜなら、中華人民共和国が成立したのは1948年であり、明確な形で降伏文書が交わせない状態であったからである。

政府への反発を日本に向けさせた戦後処理

中華人民共和国が国家として正式に戦後処理に取り組んだのは、国民党軍との内戦に勝利して、中華人民共和国が設立され、さまざまな初期的問題が一応解決し、権力が安定してきた1956年になってからのことだ。この年に対日戦争裁判が開始されたのである。

中華人民共和国政府が戦犯容疑者として拘束したのは、満州でソ連軍に捕らえられ、後に移送されて来た966名(内34名は死亡)と共産党軍と戦って捕虜となった140名(内6名は死亡)、総数1106名という極めて少ない人数であった。裁判ではこの中から日本人被告を45名に絞り込み、全員に禁固刑の判決を下した。

このような判決を下す判断の基礎には日本の軍国主義に罪があり、日本の人民には罪がないとして処理をしようとする共産党政府の基本方針があった。その根底には当時、毛沢東などの指導者は厳しさを増す冷戦の中で日本を敵に回したくないという意識が働いていたといえる。

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つまり、この裁判では悪い日本人と無実な日本人を勝手に線引きして分けたうえ、自国民に対しては悪い日本人を大陸から駆逐したとして共産党政権の正当性を主張し、同時に大多数の無実な日本人には寛大な態度で接したとすることで、日本人の感情的な部分で好感を得ようとしたものであった。

さらには大躍進政策で多数の餓死者を出すなど、冷戦期の政策の誤りを糊塗(こと)するために、悪い日本人の政治指導者を非難することで、内政の矛盾に対して反発する国民の目を日本に向けさせる手段と利用してきたのである。 

だが中華人民共和国政府には日本人戦犯を裁く法的根拠は薄かった。対日戦勝利記念日の正式決定が2014年までなされなかった理由もここにあるといえよう。

このように、終戦記念日は各国さまざまな政治的理由と戦後の政治の在り方で違ってきているのだ。われわれには8月15日を昭和史の中で語り継いでいく傾向が強いが、70年経った今、世界史という大きな流れの中で見ていく視点が必要ではないだろうか。より詳しく知りたい方は、拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』もご一読いただければ幸いである。

松本 利秋 ジャーナリスト

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まつもと としあき

1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。

ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(SB新書)など多数。


 

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