「被爆電車」に刻まれた消えない戦争の記憶 そのとき鉄道に何があったのか
1945年に太平洋戦争が日本の敗戦で終わってから、2015年は70周年という節目の年である。
70年前の鉄道にはもちろん新幹線はなく、電化区間は大都市近郊か急勾配区間に限られており、今日の鉄道輸送の圧倒的主役である電車も、その頃としてはむしろ珍しい存在であった。長距離列車の大半は蒸気機関車が牽引していた。
戦災から復興し、輸送力増強と高速化に追われた高度経済成長時代を経て、日本の鉄道は大きく変貌した。その過程で、戦争を経験した1945年以前の鉄道車両、施設は時代に合わないものとして次々に姿を消し、もはやほとんど残っていない。
しかし、やはり戦争の悲惨さや、二度と起こしてはならないという反省を後世に伝えるため、鉄道の世界においても、70年前を知る車両などが保存されている例がある。また、戦争の記憶を伝える鉄道風景が、意図的にではなく、自然と残っているところ。あるいは、人々によって記憶が受け継がれているところもある。
開発され尽くされた大都市圏であっても、身近な場所が、意外にも戦争の記憶を留めていたりする。いくつかの例を、この機会に紹介しよう。
塗色を復元した、広島の「被爆電車」
広島市中心部に路線網を持つ広島電鉄は、1912年の開業。100年以上の歴史を持ち、便利で手軽な交通手段として市民に親しまれている。
1945年8月6日8時15分の原子爆弾投下で、広島電鉄は壊滅的な被害を受けた。朝の通勤時間帯(その日は月曜日)とあって多くの電車が市内を走っていたため、そのほとんどが破壊され、もちろんのこと、全線にわたって運転不能の状態に陥っている。しかし、社員にも多数の死者を出したにもかかわらず、文字通り、生き残った人々の懸命の努力により、3日後の8月9日には一部区間で運転を再開。市民を勇気づけたという。
原爆投下の少し前、1942年に製造された650形電車5両も市内各地で被爆。大小の損害を受けた。けれども、そのうち3両は現在でも広島電鉄に在籍しており、651号、652号はラッシュ時などに通常の運用に入るほか、「被爆電車」として修学旅行生が貸し切る、平和学習にも活用されている。
653号は一時、新型電車に置き換えられて運用から離れ、車庫で保管されていた。だが、原爆投下70周年を記念して今年(2015年)、1945年当時の灰色と青のツートンカラーに復元されて、現役に復帰。RCC中国放送と広島電鉄が企画した「被爆電車特別運行プロジェクト」に使われている。
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