「被爆電車」に刻まれた消えない戦争の記憶 そのとき鉄道に何があったのか

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
原爆投下3日後の651号。爆心地から700mほどの中電前で被爆し爆風により黒焦げになったが、後に修理して復帰している。陸軍の報道班員であった岸田貢宜の撮影

このプロジェクトは、6月13日~8月30日の土日に、広島駅~広電西広島を1日あたり2往復するというもので、乗車は予約制。車内にはモニターが設置され、繁栄する21世紀の広島の街を眺めつつ、「被爆の惨禍」や「広島がいかに復興を成し遂げたか」というテーマで製作された映像を見て、過ぎ去りし日と平和な未来に思いをはせようという企画だ。

7月11日には、私も実際に、このプロジェクトに参加してみた。653号は、冷房化改造、ワンマン運転化改造こそされているが、内装はほぼ被爆当時のままの、ニス塗り木製。中央の扉部分の床は少し低くなっているが、これは乗降の便を考慮した構造だ。戦時中とはいえ、まだ余裕があった時期の設計だからか、最新仕様が採り入れられていることがわかる。

特別運行の進行は淡々としたもので、やはり「被爆した電車が復活し、走っている」という事実を体感してもらうことを主としていると感じ取れた。物言わぬ電車とはいえ、「原爆の生き証人」なのである。

なお、653号は爆心地からは3kmほど離れた、舟入南町停留所付近で原爆投下を迎えたとのこと。大破したが、修理のうえ、戦後の1945年12月には復帰している。また、同型車の654号はすでに除籍されているが、広島市交通科学館で保存されており、653号に続いて、1945年頃の塗色に復元。8月6日より展示されている。

「鉄道連隊」の名残り、新京成電鉄

画像を拡大
JR津田沼駅近くの公園で保存されている、鉄道連隊のK2形蒸気機関車

旧日本陸軍には「鉄道連隊」という部隊もあった。戦地における、鉄道の建設、運転や敵の手中にある鉄道の破壊などを主な任務としていた。その拠点は千葉県で、鉄道第二連隊は現・習志野市に置かれ、正門は今も、JR津田沼駅前にある千葉工業大学の門として使われている(国の登録有形文化財に指定)。

千葉工大とはJR総武本線を挟んで反対側。イトーヨーカドー津田沼店の向かいにある小公園(津田沼一丁目公園)には、その鉄道連隊が使用していた蒸気機関車が静態保存されている。1942~1944年製のK2形の134号で、戦地に送られずに終戦後も国内に残っていた数少ない機関車のうちの1両だ。以前は所沢市にあった遊園地「ユネスコ村」で保存されていたが、1990年の閉園に伴い、同機ゆかりの習志野市が譲り受けた。

次ページ鉄道連隊の名残はこの路線で見られる
関連記事
トピックボードAD
鉄道最前線の人気記事