「被爆電車」に刻まれた消えない戦争の記憶 そのとき鉄道に何があったのか

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新津田沼駅付近で大きくカーブする新京成電鉄の線路。鉄道連隊演習線の名残だ

鉄道連隊が使った機関車は、戦地で急速に建設され、急曲線などが多い劣悪な線路で使用されることを想定した設計だ。国鉄の蒸気機関車と比べて小型であるにもかかわらず、動輪が5対もあるのは、動輪1対あたりの線路への負担を軽くすることが目的。曲線を曲がりやすくするため、一部の動輪は左右に振れる機構となっている。

また、物資不足、人員不足の戦時中に、できるだけ速やかに量産するため、車体の各所が直線状になっている。「造りやすさ」を最優先にした設計であったことなどが見て取れる。

一方、鉄道連隊は千葉県内に演習線をいくつか建設、保有していた。そのうち最長のものであった、津田沼―松戸間の線路が戦後、払い下げられ、一般の鉄道に転用したのが新京成電鉄だ。1947年から順次、区間開業を繰り返し、全線開業は1955年となっている。

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ひたちなか海浜鉄道那珂湊駅構内に現存する九七式軽貨車

演習線は、その目的から少しでも距離を延ばすため。また、戦地と同じような悪条件を想定した訓練を行うため、急曲線を多く含む線形となっていた。その名残から新京成電鉄も、京成津田沼~新津田沼付近、初富~くぬぎ山間などでカーブが続き、電車の速度が落ちる。

その他、鉄道連隊の名残としては、九七式軽貨車がある。物資・兵員運搬用の全長7mあまりの小型貨車だが、戦後、国鉄や各地の私鉄へ払い下げられ、現在でも、ひたちなか海浜鉄道などに現存し、業務用に用いられている。

高尾山の麓で起こった悲劇

休日ともなると内外からの登山客でにぎわうJR・京王の高尾駅前から、小仏行きのバスに乗って7~8分ほどのところに「蛇滝口」というバス停がある。高尾山への登山口の一つとして知られており、すぐ側には中央自動車道と圏央道の八王子ジャンクションがある。旧甲州街道に沿った、ふだんは静かな集落だ。

ここで1945年8月5日、中央本線の列車がアメリカ軍の戦闘機に銃撃され、わかっているだけで52人の死者と100人を超える負傷者が出るという惨劇が起こっている。1944~1945年に繰り返された日本本土の空襲では鉄道も標的となり、甚大な損害と死傷者を出している。だが、1回の列車襲撃でこれほどの被害を受けた例は少なく、これが最大のものとされる。

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中央本線高尾~相模湖間にある「猪の鼻トンネル」付近の襲撃現場。戦時中は単線で、向かって右側の線路が当時のものだ。通過中の電車の辺りで、列車が銃撃を受けた

襲われたのは長野行きの普通419列車。電気機関車の牽引で浅川駅(現・高尾)を出発し、湯の花トンネル(現地では猪の鼻トンネルとも呼ぶ)へ差し掛かった時に銃撃された。このトンネルは161mしかなく、編成全体が隠れることができずに、被害が大きくなったという。

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「猪の鼻トンネル」近くの線路際にある、慰霊碑と供養塔

戦後、この場所の線路際には地元の手で供養塔が建てられ、後には戦災死者の名を刻んだ慰霊碑も建立されている。そして8月5日には、慰霊の集まりが1984年より毎年、開催され、戦争犠牲者の霊が弔われている。

高尾山は今や、世界各地からの観光客が集まって大いににぎわう場所となり、平和な世の中を象徴するかのようである。しかしその麓では、70年前、このような悲劇が起こっていた。

土屋 武之 鉄道ジャーナリスト

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つちや たけゆき / Takeyuki Tsuchiya

1965年生まれ。『鉄道ジャーナル』のルポを毎号担当。震災被害を受けた鉄道の取材も精力的に行う。著書に『鉄道の未来予想図』『きっぷのルール ハンドブック』など。

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