東日本大震災から7カ月の石巻市、町の再建が最大の課題に
大門町3丁目から女川街道(国道398号線)を1キロメートルほど歩くと、鹿妻地区がある。鹿妻南1丁目に住んでいた齋藤昭次さん(60)の自宅も津波による被害が大きく、建物の解体を余儀なくされた。
齋藤さんは震災後、5カ月にわたり友人宅で避難生活をした後、8月末に石巻市内の仮設住宅に入居した。ただ、「仮設住宅には顔見知りは一人もいない」(齋藤さん)という。
その一方で、鹿妻地区で13年にわたって町内会長を務めてきた齋藤さんは、残った住民への支援活動を続けている。齋藤さんは震災直後、避難所である鹿妻小学校に駐在していた市役所の職員と交渉して、被害を受けた自宅で生活する「在宅被災者」への市による食料配布を実現。
震災10日後頃から、食料や衣服などの物資の配布活動を町内会の有志とともに開始した。市からの物資供給は9月末で終了したが、ボランティア団体の支援によって、地区では10月から「お茶のみ広場」と称した住民の交流の場がスタートした。
■住宅の被害は大きい(石巻市鹿妻地区)
■地区住民による物資配布活動(石巻市鹿妻地区の鹿妻東公園)
齋藤さんの本業は、制服や体操着などの学校衣料の販売だ。現在は電話注文で届けているが、「住民が大幅に減った地域で仕事を継続していけるのかどうか、見通しが立たない」と打ち明ける。
齋藤さんの町内会には震災前に315世帯、約1000人がいたが、今も自宅にとどまっているのは約130世帯にとどまる。多くの住民がほかの地域へ移っていき、いつ戻ってくるかの見通しもはっきりしない。
同じ鹿妻地区に住んでいた浅野仁美さん(50)は、9月下旬まで鹿妻小で避難生活を余儀なくされた。世話役として避難所を切り盛りしてきた浅野さんは、土足からマット、畳への切り替えなど体育館の衛生状態改善や夏場のハエ対策でも先頭に立って取り組んできた。
しかし、生活再建の足掛かりとなる仮設住宅への入居は最後まで決まらなかった。結局、浅野さんは独力で探して民間住宅への入居にこぎ着けた。
浅野さんにとっても、自宅の再建は難題だ。2階建ての住宅は津波で全壊。「元の場所で建て替えるべきか、判断が付かない」と語る。震災以前は水産加工場などが視界をさえぎっていたが、今は海がよく見える。震災当日、2階のベランダで小学校6年生の娘(12)とともに一夜を過ごした浅野さんは、「もう一度津波が来たらどうなるのか」と不安を隠さない。
鹿妻地区は津波で大きな被害を受けながらも、大門町などほかの地区とは異なり、建築制限区域や被災市街地復興推進区域には指定されていない。しかし、住民が直面する困難は、ほかの地区と変わらない。数年後の町がどんな姿になっているのか、誰も予想できないまま、月日が経過している。
■町内会長の齋藤昭次さん
■避難所になった鹿妻小学校体育館(現在、避難所は閉鎖)
(撮影はいずれも9月19日)
(岡田 広行 =東洋経済オンライン)
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