振りかえると、私は、誰よりも、人と競いあって生きてきたように思う。
小学生のとき、休み時間のボール取りに負け、悔しくて友だちにかみつき、ひどく怒られたことがあった。授業では問題を誰よりも早く解き、給食の時間も誰よりも早く食べ終わろうと必死だった。部活をやめたのは、要するに、競争に負けたから逃げただけだった。
受験勉強はその最たるものだったし、大学院に進み、論文を書く、業績をあげるときも変わらなかった。勝つために書いていた。私の日常、私の人生は、勝ち負けに彩られていた。
競争とは別に「協力」という方法もある
本当にこれでよかったのか。いや、そもそも、<競争>は正義なのだろうか。
競争すれば「効率性」が高まる、という。競争がなければ非効率になり、経済も成長しない、とまことしやかに諭される。
だが、目的を達成するには、競争とは別に<協力>という方法もあることを、私たちは知っている。
協力の場では、自分の長所を活かし、他者と弱点を補いあう。考えるのは、強みの活かしかた。他者が競争の相手であれば、私たちは、苦手なことも含めて、すべてを自分で処理しないといけない。だって周りは敵なのだから。こんなに非効率的なことはない。
ギャレット・ハーディンは、誰もが自由にアクセスできる放牧地では、一人ひとりが競って牧草を消費する結果、資源が枯渇してしまう、と論じた。「共有地の悲劇」である。
共有は「ただ乗り」を生む、「非効率だ」と言わんばかりだ。でも、私には、話しあい、協力しあわないから、そんな<誤った競争>が起きるのだ、と感じられる。
Japan as No.1と呼ばれた時代、日本企業は、組織内の協力関係を重視して、国際競争を勝ちぬいてきた。バブル後の不況を経て、協力は日本企業の弱点だといわれるようになった。だが、アメリカ型の競争モデルへの転換後、日本経済は長期停滞の深みにはまっていった。
協力しなければ目的が達成されないこともある。
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