高い山に登るとき、私たちは、登山パーティーを作る。チームでは役割を分担し、共に苦楽を分かちあいながらゴールをめざす。もし、到達タイムを競いあい、あゆみの遅いメンバーが置き去りにされてしまえば、結局は、全員が登頂に失敗してしまうことだろう。
そう。私たちが目的を達成しようとするとき、競争だけがその手段なのではない。では、なぜ、競争がこれほどまでに私たちを縛りつけるのか。
現代社会では、競争は必ず勝者と敗者を生み、勝者は名声と富を手にする。恵まれた地位を手にした人たちは、当然のことながら、支配的な地位の維持に必死になる。
彼らが勝ち続けるために必要なものは? 答えは簡単、競争だ。彼らは競争に向いているから勝者になった。いったん富や名声を手にすれば、さらに有利に競争を展開できる。
自由競争という言葉がある。自由に競争できる社会は公平な社会だという。
だが、本当にそうだろうか。
人間が自由である前提には「相互承認」がある。互いの価値を認めあわない社会では、価値を認められない人の人格が否定され、当事者は不自由さや生きづらさを感じる。一方だけが生きづらいのは、どう考えても不公平な社会だ。
互いの価値を認めあう、人間の自由を重んじる社会は、自由競争の社会と矛盾する。認めあいの社会では、不利な競争を強いられる人たちの価値もまた、尊重される。つまり、強い立場にある人たちの自由が制限され、好き勝手な振る舞いに歯止めがかけられる。
強いものが勝つことが宿命づけられる競争――こんな競争を公平な競争と呼ぶのはまちがっている。政治学者ホブハウスは「共同社会が自由な人間の真の主人なのだ」といった。協力を競争と対峙させ、前者を下に見る社会は、不公平と支配を再生産する社会でしかない。
競争を中心とする「経済」と協力を中心とする「財政」
人間の歴史を振りかえろう。生活の場、コミュニティの中心にあったのは協力だった。田植えや稲刈り、屋根の張りかえはもちろん、自警、消防、寺子屋、山林の管理、ときには介護でさえ共同体的な関係のなかで提供されてきた。
近代と呼ばれる時代になり、人間の移動がふつうになると、コミュニティはバラバラになる。それに代わって、私たちが作りだしたのが、「財政」という新しい協力のシステムだ。
消防や警察に私たちは税をはらう。子どものときには、育児や保育、義務教育といったサービスを受け、社会人になれば税を払うほうに回る。歳をとって働けなくなると、税の負担が軽くなり、年金や医療、介護をもらう。こうした社会全体の協力システムが財政である。
私たちの社会は、<競争を中心とする経済>と<協力を中心とする財政>とでできている。
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