「国土防衛に強い執念」持つイスラエル、驚愕の歴史 根源にあるのは「自由への長い苦難の道」

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しかしキリスト教徒による再征服が、この例外に終止符を打つ。1492年、クリストファー・コロンブスを新大陸の発見に送り出したその年に、フェルディナンドとイサベラとはスペインのユダヤ人を追放した。プロイセンでは、ユダヤ人たちは車に乗る権利と、安息日に火を点じるためにキリスト教徒の奉仕を受けることとを禁じられた。動物の場合と同様に、彼らが町にはいるときには入市税を課せられた。

イタリア半島でも、ユダヤ人への扱い方は人間的とはいえなかった。タルムードの所持は、ここでは犯罪を構成した。毎年ローマは気晴しのためにサーカスのむかしながらの残酷さを復活させ、肥らせたユダヤ人たちを半分裸で闘技場をガチョウのように走らせた。

ヴェニスはゲットオ・ヌオヴォ――新精錬所――とユダヤ人の強制居住区を名づけることによって、世界の語彙を増した。大部分の町々のゲットオでは住民の数は法によって定められ、若い人びとはだれかが死んで定数に空きができるまでは結婚を待たねばならなかった。

ポーランドで起こったこと

ポーランドではユダヤ人は一時期、かつてスペインで享受したのにほぼ比せられる自由と繁栄とを楽しんだ。政府の重要な役職につくことさえ、許されていたのである。コサックがポーランドに抗して蜂起したとき、主に犠牲とされたのがユダヤ人だった。ロシア人のユダヤ人迫害の兇暴さと手ぎわのよさとは、史上にも前例を見ないものであって、10年とたたないうちに10万以上のユダヤ人が消えた。

ツァーがその帝国の国境線をポーランドを経て西に押し出そうとしたとき、中世のそれに似た残虐の新時代が、世界のユダヤ人人口のほとんど半ばに達する住民を襲った。歴代のツァーはユダヤ人を追いたて、西部国境に設置された植民地帯、史上最大のゲットオに、彼らを閉じこめた。若者は12歳から25年間、徴兵に応じることを強いられた。

コシャー(ユダヤ教の儀式に従って血を抜いて処理した肉)の肉と安息日のろうそくには、特別税が課せられた。ユダヤ人の女たちは娼婦の黄色い印を身につけている場合をべつとして、大きな大学都市で生活することを禁じられていた。

1881年のアレクサンドル2世の暗殺の翌日には、大衆は公然とユダヤ人虐殺を奨励された。恐怖と死との同義語である新語、ポグロムが生まれ、このことばは厖大なロシアの町から町へと響きわたった。爾後この東方の国の呪われた人びとには絶滅を逃れるすべはなく、その宗教への熱狂的な執着と伝統への情熱的な遵守のうちに、わずかに身をかがめているほかなかった。

フランス革命以後、西方の国々のユダヤ人たちは、多少はうらやむに足りる運命を享受していた。フランスでもドイツでもイギリスでも、19世紀は彼らを監視から解き放し、解放の恩恵を与えた。しかしユダヤ人の運命が決定的な転換をとげるのは、この人権宣言の都においてである。

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