「国土防衛に強い執念」持つイスラエル、驚愕の歴史 根源にあるのは「自由への長い苦難の道」

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ユダヤの民の不運は、愛を説く一宗教の発展とともにはじまった。異教徒大衆を転向させることに熱心だったキリスト教会の初期の教父たちは、彼らがひろげていた新しい信仰とユダヤ教とのあいだの溝を強調することに、全力をふるった。

ビザンツの皇帝テオドシウス2世は、この意志を立法化して法典とし、ユダヤ教を分派と宣言して、ユダヤ人を法によって隔離した。つづいてフランク族の王ダゴベールは、彼らをガリアから追放し、スペインの西ゴート族は彼らをキリスト教に引きいれるためにその子供を奪った。

6世紀に、ビザンツのもうひとりの皇帝ヘラクリウスは、ヘブルの祭儀の実行を非合法化した。十字軍の時代とともに、組織的迫害が訪れる。サラセン人ははるかとおくに生活していたが、それでも彼らは危険だった。ユダヤ人たちは手を伸ばせば届く範囲の、ヨオロッパ諸国に住んでいる。キリスト教信仰の戦士たちは彼らにおいて、その宗教的情熱をいっそう手近にかつ容易にみたすことができたのである。

エルサレムに向かう途上で出会ったユダヤ人集団を次々に殺戮したとき、その犯行を合法化するために叫んだことばは、デウス・ヴルトだった。

「神がそれを望みたもう」

大部分の国々が、ユダヤ人に不動産の所有を禁じた。中世の職人や商人の組合にはいるみちも、彼らにはひとしく閉ざされていた。法王の勅令の1つが、キリスト教徒に金融業を禁じ、ユダヤ人たちは不名誉な高利貸業に追いこまれた。法王庁はさらにキリスト教徒にたいして、ユダヤ人のために働くことを禁じ、彼らといっしょに生活することをさえ禁じた。

1215年に絶頂に達した人種差別

この人種差別は、1215年に絶頂に達する。このとし開かれたラトランの第4回公会議は、ユダヤ人を真の別種族とすることに決し、彼らに明瞭な徽章をつけることを強制した。イギリスではそれは、モーゼが十戒を受けた律法の板をあらわす徽章だった。フランスとドイツとでは、黄色い星をあらわす黄色の楕円で、のちに第三帝国がガス室に送る犠牲者を示すために、これを採用することになる。

イギリスのエドワード1世とフランスのフィリップ美貌王とは、彼らの王国に住むユダヤ人たちを毎日放逐し、この措置はその財産の大部分を横領することを可能にした。ユダヤ人たちは子供を祭壇で殺しているとまでいわれ、また恐しい黒死病を流行させたのも彼らであるとされた。

ユダヤ人たちは蜘蛛の巣を練りあわせたものと、蛙の太腿とトカゲとキリスト教徒の臓腑と聖餅とからつくった粉を井戸に投じて毒を蔓延させたことになっていたのである。この告発の結果、200以上のユダヤ人の集団が完全に掃滅された。

これらの残虐の諸世紀を通じて、ユダヤ人がほぼ正常な生活を送り得た唯一の国は、回教国王のスペインだった。ここではアラブ人の啓蒙的支配のもとに、ユダヤの民はその亡散の全期間を通じてかつてなかった繁栄を享受した。

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