「国土防衛に強い執念」持つイスラエル、驚愕の歴史 根源にあるのは「自由への長い苦難の道」
1895年1月の、ある朝のことだった。この日、パリの士官学校の大校庭に集まった群衆のなかで、黒い立派なあごひげに飾られた男が、しきりに足ぶみをしていた。オーストリアのジャーナリストで、ヴィーンの最大の新聞のパリ特派員である。
彼の目前には、4000人の直立不動の将兵と向かいあって、砲兵大尉の細い孤独な影が立っていた。愛国の情熱の暴走に身をふるわせている群衆は、死刑囚の処刑公開を見に集まる中世の人びととそっくりだった。ある意味でこの朝の見世物は、まさに死刑執行だったのである。それはフランス陸軍の一将校の、降等の公開だった。
ジャーナリストを予言者に変貌させた光景
死刑執行人の役をつとめる準士官、ブウクザンが進み出た。何らの感情も示さずに彼は大尉のサーベルをとり、絞首刑囚の首を綱が砕くように、膝の上で刀身を折った。次に士官の肩章をひきちぎり、
――アルフレッド・ドレフュース、貴下はフランスのために武器をとるに値いしない。
観衆にざわめきがひろがり、やがてそれは復讐の不吉な叫びとなった。
――裏切り者を殺せ。ユダヤ人を殺せ。
この光景はジャーナリストを預言者に、変貌させることになる。アルフレッド・ドレフュースと同じように、テオドール・ヘルツルはユダヤ人だった。そしてドレフュースと同じように、その国の社会に完全に溶けこんだ同化ユダヤ人であって、種族や宗教の問題には無関心だった。
それでも彼が青年期をすごしたヴィーンで、彼自身その一員ではない東方のユダヤ人大衆の運命についてのはなしを聞いたことがある。そしていま、冬のパリの凍てつく風に吹きさらされる広場での、世界でもっとも高い文化をもつ人びとの叫喚は、コサックの野蛮な叫びを突然彼に思い出させた。雷電のように、天啓が彼を襲った。
アンティ・セミティスムの火山は決して消えることがなく、民族国家の世紀にはユダヤ人はナショナリズムの発展の犠牲とされる。彼ら自身が国家を形成しないかぎり、生きのびることは不可能であろう。