周りから「魅力的」と思われる人が日々している事 好かれたいと思うほど嫌われてしまう禅的理由

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禅は、ただひたすら無心に取り組む姿ほど美しいものはない、と教えています。たとえば、春の到来を告げるウグイスの「ホーホケキョ」のさえずりを聴けば、私たちは「あぁ、ウグイスの声はなんて美しいのだろう」と感じます。

しかし、ウグイスはただただ無心にさえずっているだけで、私たちを楽しませようと思っているわけではありません。私たち人間が勝手に、無心にさえずるウグイスの声が清らかで美しいと感じるのです。

無心に取り組む姿勢は魅力的

あるいは高校球児を見て、彼らを清々しく感じるのも、彼らが損得勘定ではなく、ひたむきにプレーしているからこそ、私たちは心を惹きつけられるのです。

つまり、人からよく見られたい、好かれたいなどというはからいの心を一切もたずに、無心に何かにとり組む姿は魅力的であり、人を惹きつけるのです。

「歩歩是道場」(ほほこれどうじょう)という禅語があります。いつでもどこにいても、そこが道場であり、何をしていても修行なのです。その心がまえで、一瞬一瞬を一所懸命に努めなさい、という意味です。

一途に一所懸命取り組んでいる人の姿に、好感を持たない人はいませんね。

ありのままの自分で接する

人からよく見られたいという思いが強くなり、ちょっと欲張って自分を“盛る”ことは、「自我」のあらわれです。自分自身の存在や考え方に執着する心を「自我」といいます。

不特定多数の人たちに向けたSNSであれば、多少盛ってもわからないでしょう。一時の自己満足になるかもしれません。

しかし、リアルの人づきあいで自分を“盛る”のは、かえって自分を苦しめることになります。なぜなら、「ありのままの自分」がいつまでも成長できないからです。

人は、自身の未熟さを自覚し、それを改めようと努力することで成長するのです。自分を飾らずに、ダメな部分もさらけ出して、ありのままの自分で人と接するようにしたいものです。

「明歴々露堂々」(めいれきれきろどうどう)という禅語があります。真理は探すものでも求めるものでもありません。すべてが、明らかに堂々とあらわれていることに気づきなさい、という意味です。

多少自分を盛って人と接していても、あなたをよくわかっている人は、あなたのほんとうの姿をお見通しなのです。

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