対話の現場/自分と他者の人物評価、一方的決め付けの構造

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 面白いことに、善人のイメージよりも、悪人のイメージのほうが形成されやすい。民衆を庇護する黄門様より、虐待する悪代官のほうが思い描きやすいのだ。

これについては、いろいろな意見があるだろう。

「その人の本質は、言動の端々に表れる」ということで、印象形成を肯定する人は少なくない。ちょっとした失言や失態から、全人格が透けて見えるというわけだ。確かに、一理ある見解である。

ただ、他者の人格を即断する人に限って、自分の人格を他者に即断されることは許さない。言葉尻だけをとらえて、一方的に決め付けられてはかなわない。誤解もいいところだ、と言うのである。他者に厳しく、自分に優しい。人間とは身勝手なものだ。悲しいものだ。

限られた情報を手掛かりに、全人格を決め付ける──誤解といえば、誤解かもしれない。本人はもちろんのこと、本人の友人・知人も「よく知らないくせに、勝手なことを言うな」と思うことだろう。

政治家の失言や暴言の場合も、必ず「本人の真実を知る(と称する)人」が登場するものだ。「彼はああいう人なんだ」「口は悪いが、腹はきれいだ」などなど。

たぶん、そのとおりなのだろう。では、「本人の真実を知る(と称する)人」の評価のみが正しく、それ以外は間違いなのだろうか?

決してそうではない。

友人・知人のことは、どうしてもひいき目に評価しがちだ。いいことをすれば「いい人なのだから当然だ」と人格に結び付けて考え、悪いことをすれば「何か理由があるに違いない」と弁護してしまう。これを「根本的要因の錯誤」という。本人を知っているだけに、かえって評価の目が曇ってしまうのだ。

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