母の営むスナックで私が学んだ「考える力」の本質 ホステス「こずえちゃん」が取り除いてくれた偏見

✎ 1〜 ✎ 6 ✎ 7 ✎ 8 ✎ 最新
拡大
縮小

カーテンの隙間からうっすらと光が差し込む部屋で、こずえちゃんはベッドに横たわっていた。

「こずえちゃん、起きてー。起きてー」

私は泣きながら叫んだ。返事はなかった。それから数日後、彼女は、ひとりぼっちでこの世を去った。

こずえちゃんがいなくなって、新しいホステスさんがやってきた。とてもきれいな人だった。

私が店を出入りするものだから、母は、男性客がホステスさんの体に触ることを忌み嫌っていた。だから、お客さんは、たいていが年配の落ち着いた人たちだった。

だが、一度だけこんなことがあった。母がお客さんのタバコを買いに行ったときだった。酒に酔った見慣れぬ客が、ここぞとばかりにホステスさんの体をベタベタと触りはじめた。

私は、さもしい痴漢を見るような気持ちだったが、彼女はなかなかの強者(つわもの)で、笑顔を浮かべながら、平然と男性をあしらっていた。

おぞましい表情で彼女は宙を見ていた

母が店に戻ってきた。母のことを知ってか、知らずか、男性客はそそくさと用を足そうと席を立った。私はホッとした気持ちになり、それとなくホステスさんに目をやった。

ほんの一瞬だったが、彼女の顔はひどく歪んでいた。絶望と憎悪が入り混じったような、思い出すのもはばかられるような、おぞましい表情で彼女は宙を見ていた。

笑顔と絶望。彼女は屈辱に耐えていたのだ、と思った。そして、こずえちゃんのことがすぐさま脳裏に浮かんだ。喜びの涙。死ぬほど酒を飲んだ彼女の生きづらさ。この相反するふたつの感情は、こずえちゃんという人間の表と裏だったのかもしれない。

私は、小学生時代を、スナックという濃密な空間のなかで過ごした。こずえちゃんとの出会いがなかったら、彼女が偏見を取り除いてくれなかったら、私は、ホステスさんの浮かべた表情の意味、いや、その表情を浮かべていた事実すら、見逃していたに違いない。

次ページ異なる価値観を持つ人間が出会うことの大切さ
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事
トレンドライブラリーAD
連載一覧
連載一覧はこちら
人気の動画
【動物研究家】パンク町田に密着し、知られざる一面に迫る
【動物研究家】パンク町田に密着し、知られざる一面に迫る
作家・角田光代と考える、激動の時代に「物語」が果たす役割
作家・角田光代と考える、激動の時代に「物語」が果たす役割
作家・角田光代と考える、『源氏物語』が現代人に語りかけるもの
作家・角田光代と考える、『源氏物語』が現代人に語りかけるもの
広告収入減に株主の圧力増大、テレビ局が直面する生存競争
広告収入減に株主の圧力増大、テレビ局が直面する生存競争
アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
  • シェア
会員記事アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
トレンドウォッチAD
東洋経済education×ICT