一条天皇が「道長の甥」伊周の関白就任を阻んだ訳 道隆は我が子をどんどん出世させたものの…

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道隆は、自身が病に苦しみ、政務を行うのが難しくなると、「関白が病を患っている間、もっぱら内大臣に委ねる」として、一条天皇にも受け入れさせている。このときに、条件付きではあるが伊周が「内覧」に就いたが、父の死後には外されている。

つまり、道隆からすれば、病が重く死が近づくなかで、なんとか伊周の関白就任の道筋をつけておこうと考えたのだろう。「内覧」という20年以上置かれていなかった地位を引っ張り出して、息子に与えることになった。

ところが、今度は道長がその「内覧」という立場をフルに活用することになる。摂政も関白も置かないまま、道長は内覧の座を約20年、手放すことはなかった。

前代未聞の「一帝二后制」はなぜ生まれたのか?

道隆が自分の権力を保持するために行ったさまざまな企てが、なぜか道長への好アシストになっているのが、なんとも皮肉である。なかでも決定的なのは、道長が自分の娘・彰子を一条天皇の中宮としたことだろう。

このとき、一条天皇には最愛の妻、定子がいた。999年11月7日、定子は待望の第一皇子・敦康親王を産んでいる。だが、道長は同日に娘の彰子の入内を強行し、しかも強引に「中宮」にしている。

その際に、もともとの中宮である定子を「皇后宮」と号することで、道長は前代未聞の「一帝二后制」を実現させることとなった。道隆が娘を中宮にするために「皇后と中宮は別のもの」という理屈を作ったのを、道長はちゃっかりと応用したことになる。

結局、道隆の娘・定子は尼となる道を選ぶことになる。そして、息子の伊周はといえば、勘違いから花山天皇に矢を放つという不祥事をやらかして、太宰府へと流された。

いよいよ、道長の世が始まろうとしていた。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸 著述家

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まやま ともゆき / Tomoyuki Mayama

1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆活動を行う。『ざんねんな偉人伝』シリーズ、『偉人名言迷言事典』など著作40冊以上。名古屋外国語大学現代国際学特殊講義(現・グローバルキャリア講義)、宮崎大学公開講座などでの講師活動やメディア出演も行う。最新刊は 『偉人メシ伝』 『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか』 『日本史の13人の怖いお母さん』『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』(実務教育出版)。「東洋経済オンラインアワード2021」でニューウェーブ賞を受賞。

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