注目すべきは、これに対して、一条天皇はきっぱりと関白の任命を拒否していることだ。
伊周への反発があちこちから起きていることは、一条天皇も感じていただろう。また、自身も要求がエスカレートするばかりの、道隆と伊周の親子にうんざりしていたのかもしれない。
そして、何よりも母の詮子が、伊周の関白就任を望まなかったのが、一条天皇の気持ちを固めたに違いない。詮子からすれば、伊周が関白になれば、その座は伊周の息子や弟に引き継がれていくのは明白であり、何のメリットもない。
詮子はかねてから、兄弟のなかで、弟の道長を可愛がっていた。道長が2人目の妻である源明子との縁談をまとめたのは、詮子の働きかけがあったともいわれている。詮子とすれば、道隆の次は道兼、その次は道長という絵を描いていたのだろう。
一条天皇からしても、後見である国母の詮子の意向は無視できない。前述したように、道隆は、妹の詮子を一条天皇の女院とすることで、自らの影響力を高めようとしたが、そのことが結果的には、息子・伊周の関白就任を遠ざけることとなった。
「内覧」の地位をフル活用する藤原道長
道隆が死去して17日後の4月27日、一条天皇は、道隆の弟で右大臣の藤原道兼を関白に任命する。しかし、すでに疫病に冒されていた道兼は5月8日、35歳でこの世を去ってしまう。
「七日関白」と呼ばれるように、道兼が政権を握ったのは数日のみだったが、その意味は大きかった。道隆から息子の伊周、ではなく、弟の道兼へといったん継承されたことで、その後は、弟の道長へという流れができたからだ。
とはいえ、このときまだ権大納言の道長は、内大臣の伊周より下位であり、いきなり関白にするのは難しい。また、一条天皇からすれば、伊周は妻・定子の兄でもある。母の意向が重要とはいえ、極端な人事を行うことへの抵抗もあったのかもしれない。
道長には「内覧」という地位が与えられることになった。内覧とは、関白に準じた役職で、天皇に奏上する文書を事前に読める役職となる。内覧の地位が置かれるのは、23年ぶりのことだったが、例外的に務めた人物がいる。それが伊周だ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら