たとえば、アメリカで近年話題の「ポリティカルコレクトネス疲れ」などのように、「正しい」概念が逆説的に働き、過剰適応を招き、かえって息苦しい社会を生んでしまうような状況とも関係があるように思います。複雑性に耐え切れず、AIが提示する「正解」に頼り、委ねることに慣れていくうちに自ら考えることを放棄する人々が増え、社会の硬直化も進んでいくことの怖さがそこにあります。
ケインズの警告を思い出すような話ですが、ともすれば環境に慣れてしまい、「見たいようにしか見えない」人間の性には自覚的でありたいと思っています。そうした視野狭窄を破壊するのも、教養のはずですね。仮に、目的と手段が逆転してしまうようなねじれた状況が生まれても、焦れることなく飄々と、ユーモアを忘れず対処できる柔軟性を、伸びやかな知性を鍛え続けたいものだと思います。
教養とは「生きる力」を取り戻す術である
謙遜などではなく、僕は「頭のいい」人間などとはまったく思いません。博覧強記であったり、パッと質問にきれいに回答したりというような目から鼻に抜ける優秀さとは、子どもの頃から無縁です。「言われた通りにやれ」「理屈はいいから覚えろ」といった状況が苦手な、むしろ要領の悪いタイプです。
ただ、「頭の強い」人間ではあるかもしれないと自己分析します。というのも、あるとき疑問に感じたり、引っ掛かりを持ったりした問いを、ずっと忘れずに、ときに無意識レベルでも、夢にまで見るようにイメージし考え続けてしまうのです。その答えが出るのは、1週間、ときには10年、20年ということもあります。岩井さんに質問した問いが35年後に番組化したのがいい例かもしれませんが、その他にも、子どもの頃に感じ考えたことが変形して、気づけば映像企画になったり、文章になったりということの繰り返しです。
別にあらゆる方にこんなことを勧める気はありませんが、無意識の中に眠っているフラグメントが発酵して、あるとき思わぬ偶然から化学変化を起こし、新たなアイデアとなる……、そんな長い時を待てる胆力も大事なのではないでしょうか?
その胆力も決して理屈で考えるようなものでもなく、身体に染み付いた、子どもの頃目を輝かせた原初の体験につながるものと直感します。
たとえば精神的に疲れ、世の中に対して否定的になっている人でも、幼い頃初めてこの世界を認識できたとき、大いなる喜びに満ち溢れていたのではないか? そう想像してしまうのです。あどけない目をしていたときの子どもの頃の生命力が誰しも心の奥底に眠っているとしたら、それを取り戻せるのも、教養の力なのではないかと。
子どもの頃の無垢な心、弾力性ある精神……そうしたものをいくつになっても思い起こせれば……、そこに立ち返れる力、立ち返って生きる力を取り戻せるということ、その術になるのも教養の力なのかもしれません。
あす以降さらに更新されるかもしれませんが、今日考える「教養」の定義です(笑)。
堀内:数多くの貴重なお話をありがとうございました。
(構成・文:中島はるな)
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