さらには毎週毎週、ゲストの皆さんの本当に様々な経験をお聞きしているうちに、トーク、物語というものの可能性にも気づくわけです。きれいなオチがある話よりも、リアルな体験談、そのフラグメント、ディティールのほうが想像力も広がり説得力を持つこともあるという発見です。
そうなると、いよいよ番組も、そもそも起承転結をつける必要があるのだろうかと。先ほど堀内さんが言われたような教科書的なあり方とは対極の感覚ですが、むしろ根本の理念がブレることさえなければ、「起承転結」などなくても、「起承転々」でも良い、他者同士がその異質さを認め合う過程自体が表現となり、発見があるという感覚が自分の中に芽生えたことは大きかったですね。
ご出演の皆さん、ディレクターたちも、こうした異を楽しむコンセプト、“未完成”ゆえの可能性を理解してくれ、毎週、個性的な表現に挑戦してくれたことに感謝しています。
異と異の化学反応の可能性
こうした経験があったからこそ、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組も生まれました。たとえば、東大の哲学、論理学の第一人者、野矢茂樹さんと、自身の笑いの哲学を持っている爆笑問題の太田さんが、「心とは何か?」をめぐって議論するという、「異文化コミュニケーション」です。
爆笑問題のお二人が全国の大学の研究室を巡って、コンニャク問答をする過程から知の最前線が見えてくるという企画ですが、僕自身の心の中では、「英語でしゃべらナイト」とある意味、同じ構造で発想したものでした。
その後も、きれいにまとめようとするよりは、異と異がぶつかり合う中で、その対話でどこまでがわかり合え、どこから分かり合えないのか、そのプロセスを丁寧にご紹介し視聴者の皆さんにも意識の上で両者の間に参加していただくことで番組は成立するということを実感するようになり、その精神が現在の「欲望の資本主義」「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」などのシリーズにもつながっている感じでしょうか。
かつての昭和の時代であれば、何か問題に行き詰まったときに欧米はどうしているのか、アメリカでは、イギリスでは……と西欧諸国の「先進」事例のケーススタディでもある程度説得力を持つことができました。しかし、現代では、社会の構造も大きく変わり、日本が課題先進国と言われるような状況となったこともあり、正解がない中で視聴者の皆さんと「問い」を共有する感覚で映像制作に向き合うという時代になってきているのが、この四半世紀ぐらいではないかと。
もともと、定型があってその秩序に則って完成形を目指すような仕事の仕方が苦手で、常にフラットに現象を捉え、現在進行形で対話のプロセスを含めて未完成のままでも開示していく姿勢を好んでいた変わり者のマインドに、皮肉なことに時代がマッチし始めた、という言い方はできるかもしれません。