堀内:そのような問題意識を世の中にどう訴えかけていくかは、番組で映像を通して続けていくのか、それとも、映像以外にもなにか別の領域で活動の場を広げられようとしているのでしょうか。
丸山:映像は、大事なものを考える手段の一つですが、僕はもともと言葉、活字も好きで、本を読めば今度は読んだことをアウトプットで考えていくという循環も生まれます。書くという行為も、考えることを楽しむ大事なプロセスです。
現在も『群像』という文芸誌で連載をしているのですが、「教養」をテーマにとお話をいただいたときに思いついたタイトルが「ハザマの思考」でした。映像と活字、音楽と言葉、情報と教養など、ジャンルやカテゴリーの狭間からこぼれ落ちるもの、はみ出すズレ、ノイズみたいなものにこそある面白さに、書いていくうちに辿り着く過程を楽しませてもらっています。
アウトプットという意味では、大学などの対話の場も貴重ですね。芸大に加えて、この春から、「社会デザイン」という学の理念を謳う立教大学の大学院に関わることになりましたが、様々な場での「異文化コミュニケーション」が楽しみです。映像で、活字で、大学で……、そうした移動、往復運動の中で文字通り歩きながら考えることが、エネルギーになっています。
不透明な時代の「教養」とは
堀内:わかりました。これからも是非、丸山さんならではの視点でアウトプットを続けていっていただければと思います。
最後に「教養とは何か」という最初の問いに戻りたいのですが、今回は丸山さんにいろいろ語っていただいたので、だいぶ理解できましたが、まとめ的に丸山さんにとっての「教養とは何か」ということを教えていただきたいのですが。
丸山:アマノジャクな答え方になるのかもしれませんが、「固定化させずに、日々問われたときによって定義の仕方が変わっても大丈夫」と言ったら変ですけれども、答えが変わることをむしろ楽しめるぐらいのセンスのほうが、それこそ今の時代の教養のあり方としてはいいのかもしれません。教養的ということが、ある事象を常にメタレベルで捉えられたり、オルタナティブな価値を見つけられたりということであるならば、自分を固定化させないで、原初に持っていたエネルギーを大事に、その発揮の仕方の柔軟性を忘れないための作法、という言い方もできると思います。
最近はやはりAIやデジタル技術と社会との関係性などについてもよく考えるのですが、AIがこの世界をどう捉えるか、そこに新たなリアリティ、認識の形が示される面白さに期待すると同時に、その一方、人間の精神構造がAIを無意識に模倣していってしまうことについての警戒感も持ちます。後者の危惧については、哲学者、社会学者、科学者……様々な分野の皆さんからもよくお聞きする話です。