伊達政宗、死を覚悟して「あざとかわいい」驚愕行動 直木賞作家が推理、豊臣秀吉との知られざる関係
政宗は秀吉の動向に振り回されましたが、二人の関係性は決して悪くなかったと思われます。むしろお互いに気質的に似た面もあり、心情的にも通い合うものがあったように感じます。
秀吉が政宗を気に入っていた証左として、長船光忠作の名刀「燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)」にまつわるエピソードがあります。
「政宗に刀を盗まれた。取り返してまいれ」
慶長元年(1596)、大坂、伏見を行き来する船を献上した政宗は、秀吉から光忠の刀を下賜(かし)されます。
翌日、政宗が光忠を帯びて普請場に来たところ、秀吉は「政宗に刀を盗まれた。取り返してまいれ」と小姓たちに命じます。これは秀吉の冗談でしたが、小姓たちは政宗から刀を取り返そうとします。すると政宗は城内を逃げ回り、秀吉はその姿を見て大笑い。結局、秀吉は政宗を許し、刀はそのまま政宗のものになりました。
こうした一連の政宗と秀吉のエピソードをもとに、『戦国武将伝 東日本編』の宮城県では伊達政宗を主人公とした掌編「頂戴致す」を書いています。
政宗と秀吉の関係性を現代風にいうならば、叩き上げで日本一の大企業に育て上げた経営者(秀吉)と、子会社化した地方の老舗企業の若手経営者(政宗)といった感じです。政宗が母の義姫に宛てた手紙にも、「太閤秀吉様、関白秀次様の覚えめでたく、日々懇(ねんご)ろなお言葉をかけていただき周囲にも鼻が高い」という記述があります。
以上、政宗と秀吉の関係性をみてきましたが、もちろん私はそう思わないという意見があっても良いと思います。あなただけの人物プロファイルがあって構わないのです。そうしてまた歴史に対する興味を深くしていくものではないでしょうか。
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