伊達政宗、死を覚悟して「あざとかわいい」驚愕行動 直木賞作家が推理、豊臣秀吉との知られざる関係
このとき、政宗は白装束に加えて、金箔を貼った磔柱(十字架)を担いで参上したといわれています。今回はさすがに許されないかと思われましたが、秀吉は政宗の命を奪うことはありませんでした。その代わりに米沢から旧葛西・大崎領への転封を命じ、石高も72万石から58万石に減らされました。新たに岩出山城を拠城とし、一揆で荒廃した新領の統治に追われることになったのです。
政宗は一揆を「煽動していない」と弁明しましたが、私はやっていたと推測します。秀吉に隠れてそのようなことをしたら、それを理由に潰されるのは目に見えており、家康など歴戦の武将はそのような行為を絶対やらないのですが、政宗はまだ「これぐらい大丈夫だろう」という詰めの甘さがあって、やってしまったのではないでしょうか。
中央では許されない行為だった
中央には中央、奥州には奥州のやり方があって、政宗は奥州のやり方で一揆を煽動しました。秀吉に歯向かうとか、そういう意識でやったわけではなく、小石を投げるような感覚でやったのだと思います。
奥州ならどこかのタイミングで幕を引いて終わるところですが、中央では許されない行為でした。
まだ中央の世界をよく知らないこともありましたが、政宗には旧蘆名領を召し上げられたことに対する不満が燻(くすぶ)っていたのでしょう。「少しでも領地を拡げたい」という欲から一揆を煽動したと考えられますが、損切りできない政宗の若さが招いた失敗でした。
数々の修羅場をくぐり抜けた秀吉にとって、親子ほど年が離れた政宗は、そこまで脅威には感じなかったのかもしれません。あるいは、この頃の秀吉は朝鮮出兵を間近に控えていたので、政宗を改易するのは得策でないと考えていた可能性もあります。
いずれにせよ、政宗は再び窮地を脱しました。
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