伊達政宗、死を覚悟して「あざとかわいい」驚愕行動 直木賞作家が推理、豊臣秀吉との知られざる関係

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「関白(秀吉)との事さえ上手くいけば、他には何も心配はない。関白との間に行き違いがあれば、切腹は免れまい。只々、明けても暮れても、このことで頭が一杯だ」

また、片倉家の歴史をまとめた『片倉代々記』には、政宗が小十郎景綱の屋敷を訪れ、寝所で意見を聞いたという話が記されています。

このとき、景綱は秀吉の大軍を夏に大量発生する蠅(はえ)にたとえ、「秀吉の勢い莫大なり。譬(たと)えば夏蠅のごとし。一度に二、三百打ち潰し、二度、三度までは相防げども、いや増しに生じ来たり、その時の至らざれば尽きず、今敵対すること、御運の末か」と答え、関白秀吉に降るほかないことを示しています。

政宗は頭の中で、「北条の本拠である小田原城は天下の堅城なので、もしかしたら北条が粘ってくれるかもしれない」という微かな希望というか願望を抱いていたかもしれません。 

一方で、政宗は前田利家や浅野長政ら秀吉の側近とも音信を交わしていたので、楽観的な見通しが通用しないこともある程度は察していました。そしてついに、政宗は秀吉がいる小田原への参陣を決意します。

白装束姿で小田原に参陣した理由

天正18年(1590)5月、政宗は片倉小十郎景綱ら少数の供を連れて出立し、小田原に向かいました。いざというときの備えとして、本国には戦上手の伊達成実を残しました。そして、要請より遅れて小田原に参陣した政宗は、死を覚悟した白装束姿で秀吉と面会します。

大名間の私的な領土争いを禁じる惣無事令(そうぶじれい)が出た後に会津の蘆名を滅ぼした政宗は、その場で改易や切腹を命じられてもおかしくない立場にありました。

一方で、政宗は事前に秀吉の性格や好みを研究して、派手なパフォーマンスが好きなことを把握していたと思われます。そこで、自分が秀吉に臣従するという意味合いを対外的に最も効果的に見せるために、白装束姿で現れたのではないでしょうか。

秀吉はこの政宗のパフォーマンスをどう感じたのか。

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