和泉式部は、20歳頃に橘道貞と結婚。夫が和泉国へ赴任すれば、自身も和泉へ出向くなど夫婦仲は良好だった。2人の間には、小式部内侍(こしきぶのないし)という娘も生まれている。
だが、新婚時期も終わって京に戻ると、和泉式部は冷泉天皇の皇子、為尊親王と恋に落ち、さらに為尊親王が病死すると、今度は弟の敦道親王との恋愛をスタートさせた。
たとえ周囲から、どれだけたしなめられたとしても、和泉式部は気にも留めなかったようだ。なにしろ、スキャンダラスな関係を『和泉式部日記』で、自分から堂々と描いているのだから、肝が据わっている。いわば、現代でいうところの「暴露本」だ。
恋愛に奔放だった和泉式部を、藤原道長がイジったこともあった。ある人が扇を持っているのを見て、道長が「誰の扇だ?」と問うと、「あの女のです」と和泉式部からもらったものだと話した。
すると、道長はその扇をとりあげて、「浮気な女の扇」(「浮かれ女の扇」)とイタズラ書きをしたのだという。道長もまた小学生レベルのしょうもないことをしたものだが、それを知って和泉式部は、こんな歌を詠んでいる。
「こえもせむ こさずもあらむ 逢坂の 関もりならぬ 人なとがめそ」
現代語訳すれば「男と女の逢瀬の関を越える者もいれば、越えない者だっている。恋の道は人それぞれなのに、何の関係もないあなたにとがめられる覚えはありません」。
痛快な和歌で、道長をぎゃふんと言わせた和泉式部。多くの男性たちが和泉式部に魅了された理由もわかる気がする。
紫式部が「本格派」と認める赤染衛門
紫式部が和泉式部の和歌を高く評価しながらも、こんな辛口をいちいち挟んでいることは、前回の記事で書いた(過去記事「辛口な紫式部が歌を絶賛」恋に生きたある女性」参照)。
「本物の歌人といふうではないですが」
(まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ)」
「<恥づかしげの歌よみや>とはおぼえ侍らず」
(<頭の下がるような歌人だわ>とまでは私は思いません)
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