鶴見・南武・相模線の「消えた支線」知られざる歴史 砂利や貨物輸送、京浜の工業発展を支えた鉄路
鶴見線には今も、海に面する海芝浦駅が有名な海芝浦支線(浅野―海芝浦間)、首都圏で最後まで旧型国電車両が走った大川支線(武蔵白石―大川間)があるが、かつてはほかにも石油支線、鶴見川口支線が存在した。
石油支線は1926年4月、安善町にあった日本石油、ライジングサン石油、スタンダード石油の製油所からの石油輸送を目的として開業。1930年から1938年の間は旅客輸送も行った。
同支線は1986年に廃止されたが、それ以降も安善駅の構内施設扱いで線路(JR貨物管理・約1km)が残り、現在も不定期ながら米軍の鶴見貯油施設から横田基地への航空燃料輸送に使用されている。
現地に足を運ぶと、支線の終点に設けられていた浜安善駅(開業時は石油駅。国有化時に浜安善に改称)跡地には、当時のコンクリート製の車止めが残っている。
また、浜安善駅跡のやや手前(北側)で分岐した引込線が米軍の貯油施設内へと延びており、フェンス越しにタキ(石油タンク車)が並んでいるのを見ることができる(米軍施設内は撮影禁止)。
知られざる「鶴見川口支線」
石油支線は今も線路が残っていることから知る人も多いと思うが、鶴見川口支線(1982年に廃止)は、ほぼ知られていないのではないか。同支線は1929年から1932年にかけて不況対策として神奈川県が行った埋め立て事業(現・鶴見区末広町1丁目の大部分)完了後、同地区の貨物輸送のために1935年に開業。当初は弁天橋駅を起点に鶴見川口駅との間を結び、国有化時に起点を浅野駅に移している(浅野―鶴見川口間2.4km)。
興味深いのは、この支線の線形だ。浅野駅を出発した貨物列車は、いったん鶴見小野駅上りホーム西側に敷かれた側線に入り、ここでスイッチバックしていた。鶴見小野駅西側のレンガ敷きの遊歩道は、その側線跡である。
鶴見小野駅で方向転換した後は、産業道路の南側で鶴見線本線から分岐。その先で日本鋼管(現・JFEスチール)鶴見川工場の引込線と交差し、現在のバス通りに沿って鶴見川口駅へと進んでいた。鶴見川口駅は東京瓦斯(現・東京ガス)横浜工場の門前付近にあり、同工場およびその先の鶴見曹達(ソーダ。現・東亞合成)工場内に引込線が延びていた。
ただし、1948年測量の地形図を見ると、この時点では浅野駅方面から鶴見川口駅へ直接入線する線形になっている。スイッチバックを行うようになったのは、その後のことのようだ。
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