鶴見・南武・相模線の「消えた支線」知られざる歴史 砂利や貨物輸送、京浜の工業発展を支えた鉄路
JR鶴見線、南武線、相模線の3路線の歴史を見ると、いずれも私鉄(地方鉄道)として創業し、草創期は貨物輸送に経営の力点を置き、その後、太平洋戦争中に戦時買収によって国有化されたという共通点がある。鶴見線の国有化は1943年、南武線、相模線は1944年であり、今から80年前のことだ。
鶴見線、南武線、相模線にはもう1つ興味深い共通点がある。それは、貨物輸送上の必要性から、多数の支線がかつて存在したことである。今回は鶴見線、南武線、相模線の支線の廃線跡を歩きながら、一般的にはあまり知られていない各路線の歴史を掘り起こしてみたい。
設立100年の鶴見線
鶴見線の前身となった鶴見臨港鉄道は、今から100年前の1924年7月に設立された。初代社長の浅野総一郎は、浅野財閥(現・太平洋セメントの源流の1つである浅野セメントが中核)を率いた人物だ。大正から昭和のはじめにかけて、浅野は自ら見聞したヨーロッパの港湾施設を参考にして、川崎・鶴見の地先に約150万坪の埋め立て地(末広町・安善町・白石町・大川町・扇町など)を造成し、工場を誘致した。
この埋め立て工業地帯の物流を担う目的で建設されたのが鶴見臨港鉄道である。同鉄道は1926年に貨物専用線として開業し、1930年からは旅客営業にも進出した。
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