鶴見・南武・相模線の「消えた支線」知られざる歴史 砂利や貨物輸送、京浜の工業発展を支えた鉄路
最後に見るのは相模線だ。相模線といえば寒川―西寒川間(1.5km)を結んだ西寒川支線が知られている。相模線の前身・相模鉄道時代の1922年5月に、相模川で採取した砂利輸送のための貨物線として開業(当初は、寒川駅起点1.93kmの四之宮駅が終点)し、後に旅客営業も行った。
これとは別に、相模鉄道には川寒川支線(寒川―川寒川間1.4km。廃止時の官報に0.9kmとあるのは本線との分岐点からの距離と思われる)という貨物支線も存在した。同支線は本線の茅ケ崎―寒川間と同時に、1921年9月に開業している。
どのような支線だったのか知るために、1921年に測図・1925年に鉄道補入した「伊勢原」と「藤沢」の地形図(寒川文書館所蔵)を見ると、2枚の地形図の境目あたりに川寒川支線が描かれている。そこで両図を合成すると当時の路線の姿が浮かび上がってくる。
短命だった「川寒川支線」
寒川駅から西進した川寒川支線と西寒川支線は、現在の県道446号線とクロスするあたりで分岐し、西寒川支線は南西に弧を描くようにして進んでいく。一方、川寒川支線はS字を描きながら北西へ進んでいる。ちなみに相模鉄道本線の寒川―厚木間が延伸開業するのは1926年であり、この地形図が測図された時点での本線の終点は寒川駅だった。
地形図上、「川寒川駅」という文字が書かれているのは現在の県道44号線と圏央道が交差する付近だ。さらに駅の先、現在の県水道の取水堰付近の河川敷まで線路が延びている。
川寒川駅について、より詳しく調べてみよう。同駅に関する資料は少ないが、相模鉄道の当時の事業報告書にいくつか記述が見られる。開業前の段階では単に「砂利停車場」と記載されていたが、1922年6月から「川寒川」と書かれるようになり、「第七回事業報告書」(自1923年6月 至1924年5月)には「川寒川停車場」と記載されている。
「川寒川」というのは少し変わった駅名だが、「砂利の近代史-相模川砂利を中心として(下)-」(内海孝著「寒川町史研究2」掲載)によれば、「川端停車場」とする予定だったところ、同名の駅がすでに夕張線と和歌山線にあったために、川寒川という停車場名になったという。
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