鶴見・南武・相模線の「消えた支線」知られざる歴史 砂利や貨物輸送、京浜の工業発展を支えた鉄路

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次は南武線について見ていこう。同線には今も存在する浜川崎支線(尻手―浜川崎間4.1km)、貨物専用の尻手短絡線(尻手―新鶴見信号場―鶴見間5.4km)以外にも、かつては多くの支線があった。

南武線浜川崎支線 205系
浜川崎支線の尻手-八丁畷間を走行する205系。E127系投入によりいずれ姿を消すかもしれないが、2024年1月現在は高頻度で運用されている(筆者撮影)

南武線の起源は、1919年に鉄道院に敷設免許を出願した多摩川砂利鉄道だ。当時は鉄道・道路の整備や、鉄筋コンクリート建築の登場による用材としての利用のほか、前述した浅野総一郎らによる鶴見・川崎の臨海部埋め立てなどで大量の砂利が必要とされた時代だった。

こうした背景から多摩川流域では、玉川電気鉄道(後の東急玉川線、1907年開業)、東京砂利鉄道(国分寺―下河原間、1910年開業)、京王電気軌道(現・京王電鉄、1913年開業)、多摩鉄道(後の西武多摩川線、1917年開業)などが砂利輸送を行っていた。

多摩川砂利鉄道は、こうした先行企業を追いかける形で多摩川の砂利採集・輸送を目的として計画され(ただし、一般旅客貨物輸送も当初から目的とした)、南武鉄道に社名変更後、1927年3月に川崎―登戸間の本線(17.2km)および矢向―川崎河岸間の貨物支線(1.6km)を開業させた。

矢向から分岐「砂利輸送」の貨物支線

南武鉄道の砂利採集・輸送がどのように行われていたのかを具体的に見ると、沿線の宿河原と中野島に砂利採取場があり、ここで採取した砂利を貨物列車で川崎河岸駅まで運び、船や艀(はしけ)に積み替え、さらに目的地まで運んだ。川崎河岸駅の砂利の船積み設備については、『南武線いまむかし』(原田勝正著)に次の記述がある。

「多摩川右岸につくった船溜の上に、いくつものじょうごの口が斜めに突き出ていて、その上に貨車を引き込む線路が走っている。砂利などを積んだ貨物列車が到着すると、貨車の側板を倒す。するとそのまま、このじょうごから船に荷を卸すことができる」

矢向から分岐する貨物線と川崎河岸駅 地形図
1928年修正測図「矢口」地形図部分。多摩川河畔に向かって進む貨物線と川崎河岸駅が描かれている(出典:国土地理院)
川崎河岸駅跡 緑道公園
川崎河岸駅跡の緑道公園。かつてはこの先の河畔まで線路が延び、砂利の船積み施設があった(筆者撮影)

この矢向―川崎河岸間の貨物支線は1972年に廃止され、現在は廃線跡の大半が「さいわい緑道」という遊歩道となっており、川崎河岸駅跡は緑道公園として整備されている。

だが、残念ながら貨物線がこの場所を走った痕跡は、遊歩道の途中に立てられている「旧南武鉄道貨物線軌道跡」と刻まれた記念碑くらいしかない。

南武鉄道貨物線軌道跡の記念碑
「旧南武鉄道貨物線軌道跡」と刻まれた記念碑。南武鉄道開業時は関東大震災からの復興期に当たり、大量の砂利が必要とされた(筆者撮影)
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