今年で第3回目を迎えた王貞治さん、それに日野皓正さんと私の3人が大会ホストとなる「レジェンド・チャリティゴルフ大会」が5月に千葉のゴルフ場で開かれました。今年は東日本大震災復興のための基金としましたが。それに賛同して参加してくれたプロは丸山茂樹や片山晋呉、それに石川遼ら28名、芸能方面からは五木ひろしさんや舘ひろしさんという古くからの友人たちが28名、今年も豪華な顔ぶれとなりました。
被災地には、やはり大会に参加してくれた宮城県出身の佐々木主浩さんと日帰り強行軍。そこで想像以上の惨状をこの目で見てきました。救われたのは子供たちの笑顔、未来を見つめる明るい瞳の輝きです。震災からの復興を確信しました。最初このチャリティ大会を始めたのも、ゴルフのおかげで世間に認めてもらえる人間になったわけですから、ゴルフを通じて何かお役に立てないか、それには子供たちを元気にすることが日本の元気につながる、そう思って始めたのです。今年は出身地千葉県の子供病院から被災地へと寄贈する先が変わってしまいましたが、ご理解いただけると思います。ただその大会の初日、ホールアウトした私に、スペインの親友であり強烈なライバルであったセべ・バレステロスの訃報が入りました。カメラや記者に囲まれ「今のお気持ちは」と聞かれても、とっさに言葉なんて見つかるはずがありませんでした。今にして思うと私に大きな影響を与えた選手でした。10代後半から日本のツアーにやってきて、その成長が著しいのです。そして20歳を過ぎると1977年、78年と日本オープンを連覇。当時私も海外ツアーに参加、世界マッチプレーに勝ったり、全英オープンで7位に入るなど自分のゴルフに手応えを感じていた頃なんで、セべを非常に意識したんですね。当時、秋口に日本ツアーが高額賞金になるとやってきて多額の賞金を持って帰ってしまう、それが悔しくてね。「それなら俺もドルを持ち帰るか」、これが海外ツアーへの参加の動機でしたから、セべはライバルであり恩人でもあるってことですね。
二人の思い出の試合は80年のジュンクラシックでしょう。私が2打差リードで18番ホール、グリーンの手前に池のあるパー4。11月の寒い日、ロングヒッターのセべは2オン可能だけど私には無理。案の定2オンしたセべはピン右から5メートルを入れてバーディー。このとき私が取った作戦は、セカンドは6番アイアンで刻んで、100ヤードを残したのです。当時のピッチングウェッジはフルショットで100ヤードちょうど。プレッシャーのかかるショットではフルショットのほうがミスが少ないものです。そのショットは予定どおりピン横、上りで真っすぐの1メートルにつけ、パー。1打差の優勝でした。コース攻略はティーグラウンドでなくグリーンの上から考える、今日の私のゴルフの礎になった試合であったかもしれません。
1942年千葉県生まれ。64年にプロテスト合格。以来、世界4大ツアー(日米欧豪)で優勝するなど、通算85勝。国内賞金王5回。2004年日本人男性初の世界ゴルフ殿堂入り。07、08年と2年連続エージシュートを達成。現在も海外シニアツアーに参加。08年紫綬褒章受章。
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