生成AI出現が問う「学校の宿題」をすることの意義 なぜ宿題をするべきか大人は答えられるか?

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とはいえ、インターネット環境下でパソコンを開けば、誰でも生成AIを使えるわけです。生徒からパソコンを取り上げるわけにもいきません。しかも生成AIを使ったかどうかを完璧に見極めるすべはないに等しい。生成AIは「小学校4年生のような文体で」といったオーダーにも巧みに応えてくれるため、かつて問題だった親などによる代筆のケースよりも、ずっと見抜きにくくなっているのです。

となれば、いくら「宿題に使ってはダメ」と言っても、一定数の生徒はひそかに生成AIを使って宿題をすると考えるほうが自然でしょう。

では、どうしたらいいのか。教師は生徒に対して疑心暗鬼になりつつ、「使っちゃダメ」と通達するしかないのでしょうか。生徒から「なぜか」と問われても、「それがルールだから」と言うほかないのでしょうか。あるいは、生成AIを使ってできないような課題を何とか考え出して、与えなくてはいけないのでしょうか。

宿題が教師の「アリバイ作り」になっていないか

生成AIを使って宿題をすることを禁止するかどうか。禁止するなら、どのように守らせるか。これらは問題の本質ではありません。

私は「生成AIを使って宿題をすることの是非」よりも先に、今こそ問うべきことがあると考えています。それは、そもそも宿題というものが、教師にとって単なる「アリバイ作り」になってはいないだろうか、ということです。

まず、宿題とは何のために出すものなのでしょう。授業で習ったことを確実に定着させるため。授業で習ったことを自分なりに発展させるため。本来は、こうした目的意識の下で出されるものであるはずです。

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