「起業は自己実現、でも経営は修行」である理由 元起業家・起業家・私設図書館長が組織論を語る
平川:内田くんの受け売りなんだけど、東アジアに独特のものとしてもう1つ重要なのが修行なんだよ。修行の目的は忘我なんだよ。則天去私なんだ。自分を捨てること。自分探しの正反対なの。
青木:そうか、そう考えると起業はある種の自己表現かもしれないけど、それから先は修行になっていくのか。
栗原:自分は完全にそう思ってます。だから中国思想とか東アジアに帰っていくんですよね。周公旦みたいに自分の周りに優秀な二番手、宰相を置いてその人の話を聞いて経営を行うほうが自分には合っているとも思いますし。
青木:そうか、だから僕が今POPERでやってる「社内ラジオ」って、インビジブルなものの存在を語り続けることなのかもしれない。目に見えないものがあるよっていう。「空有」だよね。
平川:インビジブルなものは全部金では買えないんですよ。実はいくらでもあるんですよ。金で買えるのは、目に見えるものかつ値札のついたものだけなんです。だから、インビジブルな物に価値を置くというのは、商品経済に対するアンチテーゼなんだよね。商品経済は、欲望に取り憑かれた人間なしには成立しませんよね。
しかし、東アジアの経営者には、人間として徳を積むこと、修行して忘我の境地に至るとか、我執を捨てるっていうところを目指すなんて人が出てくる。これは本当に東アジア独特の文化なんですよ。なかなかいい文化だと思うんだけど。
一神教の世界はどこまでも自分を確認していく。自分を確認すると自分が固定化されちゃって成長がなくなる。揺れ動いていたほうがいいんだと。自分なんてものはいくらでも変わりうるから。
二者択一をやめて「程度の問題」として考える
栗原:うちはPOPERっていう名前の会社ですけど、僕が卒論を書く時に科学哲学をテーマにして、その中でカール・ポパーに出会ったんです。『開かれた社会とその敵』でもプラトンを全否定して、プラトニズム、本質主義みたいなものを否定するんですよね。自分探しの旅っていうのもそこから来ているのかなって思います。物事には本質がある、イデアがある。それが答えであって、そこに辿り着くことがゴールなんだと。でも東アジアは全く別で、真ん中には何もないわけですもんね。だからポパーの立場からしても結果としては忘我に至るんですね。
平川:どんどんいい加減になっていけばいいんですよ。二者択一っていう合理主義をやめて、程度の問題として考えるっていう。どの程度までだったら共有できるのか。なかなか難しいことなんだけど、これが一番大事なんです。グローバリズム由来の二者択一の論理に侵食されすぎちゃってるから、もう1回いい加減さを取り戻したいよね。でも栗原さんは柔らかい雰囲気だからいいよね。栗原さんの感性のままで生きていくのは苦労するとは思うけど、頑張ってね。
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