もちろん、部分的なシステムは存在する。例えば、江戸幕府システムという優れた統治機構は存在する。しかし、江戸時代の社会構造は、その徳川幕府の提案したシステムに、商人、町人、農民が個々に対応、適応して生まれてきたものである。
そして、社会全体があたかもシステムのように安定して機能しているように見えるのは、個々の主体が、部分的に設計された社会の各部分のシステムに対して、試行錯誤を繰り返す中で(それに対応して、部分的な社会システム設計者も、試行錯誤で部分システムを修正していく)、社会の変化に適応し、疑似システムである社会をつくりあげてきたからである。
個々の主体同士が交わる中で安定的な均衡へ向かう、安定的な疑似システムが熟成過程のように形成されていくのである。そのためには、繰り返しが必要だ。
経済が安定している中で、社会の「疑似システム」が熟成し、社会も成熟していくのである。
その中で、文化も技術も成熟し、次の「変化の時代」において、果実の刈り取り、量的拡大的な経済成長の実現、顕示的で華やかな文化が外へ溢れ出すこと、すなわち、作り上げてきたものが花開き、みせびらかすバブルの時代、「変化の時代」における豊かさの実現、氾濫を準備するのである。
中世こそが、農業生産力が向上し、経済的な富の蓄積がおき、次の時代の世界を駆け巡る資本の原資を蓄積したのである。
固定化の時代、内的充実の時代へ向けゆっくりと思考を
したがって、現在の近代資本主義末期が発散し、バラバラになったあと、それと同時進行的に重なり合いながら、蓄積の時代、成熟の時代、固定化の時代が世界の各地の社会に徐々に広がっていくのである。
われわれはそれを準備する必要がある。そのような時代とは、日本が得意とするタイプであることは、「ついに『日本が独り勝ちする時代』がやってきた」でも書いたとおりだ。
しかし、世間ではこれを理解せず、世界に遅ればせながら、いまさら変化を意図的に加速し、意図的に社会の崩壊を早めようとしているようである。だから、日本のさまざまなものはうまくいかない。政府や企業が動けば動くほど、崩れていくように見えるのである。
今からでも遅くはない。固定化の時代、内的充実の時代へ向けて、じっくりわれわれ個人個人がゆっくり思考することから始めようではないか。AIなどにより人間の思考が退廃させられないように(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が週末の競馬を予想するコーナーです。あらかじめご了承下さい)。
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