松浦弥太郎が「教養の圧」から距離を取る納得事情 全方向でインプットしても「わかる」が増えない
「知らない」ということは、恥ずかしいことでも劣っていることでもありません。
だれもがそれぞれに「知っている」と「知らない」を抱えています。昭和の名作映画の知識を持っていなかったとしても、韓国の音楽カルチャーについてはそれなりに詳しいとか、料理については日々考えている、ということはふつうにあるはずです。
凸凹があってもいい。むしろ、凸凹があることが自然です。全方向でインプットしようとすればするほど、「わかる」にはたどり着けません。
なんでもかんでも浅く知るより大切なこと
それに、もし自分が詳しくないことについて知っている人がいたら、教えてもらえばいいだけの話でしょう。僕は疎いジャンルもたくさんありますから、食事会などでそれに詳しい人や好きな人に教えてもらうこともしょっちゅうあります。
でも、そうやって知らないことがあることを「教養がない」と嘲られたことは一度もありません。もちろん僕が詳しいことを教えることもたくさんあるけれど、「ものを知らないな」なんて思ったことはありません。自分が怖れるほど、周りの人は自分をジャッジしていないのだと思います。
なんでもかんでも浅く知るより、自分の中にいくつかの「わかった」があるほうが自分の軸が太くなります。
名作映画を早送りでどんどん観て消化していくのではなく、同じ映画を何度も繰り返し観て、感じて、対話して、考える。そして向き合うことで、自分らしいスタイルがつくられていくのではないでしょうか。
自分で「理解したいこと」と「知らなくていいこと」を選別する。選んだものについては、しっかり考えていく。それ以外のことは、ポジティブにあきらめる。
そんな「疎さ」を守るのも、エッセイストとしてのあり方なのです。
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