松浦弥太郎が「教養の圧」から距離を取る納得事情 全方向でインプットしても「わかる」が増えない

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いま、多くの人があたらしい情報に触れることばかりに夢中になっています。ひとつのできごとやニュース、コンテンツについてじっくり考えるのではなく、次々と差し出されるあたらしい情報に意識を向ける。

『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史、光文社)という本はそのタイトルのセンセーショナルさもあり話題になりましたが、実際、スタンプカードを埋めるように「より多く知る」ことをなによりも大切にしている人たちがいるようです。

これは、ひとつの社会問題なのではないかと僕は考えています。

なぜなら、「知る」に熱狂するということは、静かに頭をはたらかせる時間を失ってしまうことだからです。

「知る」時間を減らす

人間に与えられた24時間は、いつだって同じ長さです。知ることに時間をかけるほど、理解する時間は少なくなっていきます。

「わかる」ことは、本質に近づくこと。大切なものが増えていくことです。大切なものが増えていくことは、人生における豊かさのひとつです。

その豊かさを得るためには、やはり、ひとつのことに時間をかけて考えなければなりません。大切なものを深く理解するためにも、「知る」時間を減らして「わかろうとする」時間に振り分けるのがいいのではないでしょうか。

そもそも、「すぐに知れること」はみんなが等しく手に入れられる情報ですから、それほど貴重でもなければ役にも立ちません。

それなのにわかった気になってしまうわけですから、過剰なインプットはむしろ害悪であるとさえ言えるでしょう。

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