松浦弥太郎が「教養の圧」から距離を取る納得事情 全方向でインプットしても「わかる」が増えない

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逆に、1年前、3年前になんとなく追いかけたニュースが、いまの自分に影響を与えているか振り返ってみるのもいいでしょう。時間を無駄遣いしてしまっただけで、なにも残っていない。「わかる」につながっていないのではないかと思います。

だったら、最初から目に入れなくてもいいな、と考える。

そういうふうに、過去と未来をイメージしながら「これは自分にとって大切な情報か」と吟味していけば、自然と「狭く」なっていくはずです。

もちろん、スキャンダルを目にしたときに、たとえば「依存とはどういうものなのだろう」と気になったり、「人が抱く『イメージ』とはいったいなんだろう」といった問いが浮かんできたのであれば、それは大事に抱えるべき好奇心。自分にとって大切なテーマになりそうなのであれば、向き合う価値はあるはずです。

どれだけ「わかりたい」と思うものをインプットするか。

いかに「わかりたい」と思わないものをインプットしないか。

そんな意識で情報に向き合うといいのではないでしょうか。

「教養の圧」から抜け出す

いまの世の中は、「だれもが身につけておくべき」とされる「教養」が多すぎるように感じます。

歴史、音楽、哲学、ワインに映画……学問からカルチャーまで、さまざまな「教養」が僕たちを追い立ててきます。

昔から、教養のある人は一目置かれる存在ではありました。でも、最近はあまり教養のない人やものを知らない人が蔑まれたり、「教養のある人間でなければならない」という圧が強くなったりしているように感じます。

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