松浦弥太郎が「教養の圧」から距離を取る納得事情 全方向でインプットしても「わかる」が増えない

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「わかる」ために、たくさんの情報は必要ありません。むしろ少ないほうが、自分の頭の中で問いと答えのラリーをつづけることができます。

いま自分は「知ろうとしている」のか。「わかろうとしている」のか。

まずはその意識を持つことが大切なのです。

「知る」入り口を狭くする

エッセイとは、「知っていること」ではなく「わかったこと」を書くものです。これはとても大事なポイントです。

自分の感情について、愛しているものについて、好奇心を持ったテーマについて、問いから導き出した答えについて、自分なりの理解を記していくもの。

だからエッセイストにとっては、「どれだけ知っているか」よりも「どれだけわかっているか」のほうがずっと大事です。

「わかる」ためには、前項でお話ししたように「知る」時間を減らして「わかろうとする」学びと理解の時間に振り分ける必要があります。

具体的には、インプットの入り口を「狭く」するのがいいでしょう。情報を、ある程度のところで遮ってしまうのです。

芸能人のスキャンダルなどを想像すると、わかりやすいかもしれません。テレビやネットニュースがその件を取り上げて騒いでいるとき、「このニュースを知ることで『わかる』が増えるだろうか」と考えてみるのです。「明日の自分、1年後の自分にいい影響があるだろうか」と問うてみる。

おそらく、答えは「ノー」でしょう。

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事