松浦弥太郎が「教養の圧」から距離を取る納得事情 全方向でインプットしても「わかる」が増えない

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内田樹さんが著書『街場の読書論』(太田出版)で、本の読み方についておもしろい考察をされていました。

内田さんによると、読書には「文字を画像情報として入力する作業(=scan)」と「入力した画像を意味として解読する作業(=read)」があるのだそうです。

前者は、さながらプリンタのスキャンのようなもの。「しっかり咀嚼して消化する」のではなく「そのまま飲み込む」イメージです。新聞の斜め読みはまさに「scan」で、そこで自分のフックに引っかかった文字情報があれば、文章を深く読み込んでしっかり理解する「read」にスイッチするというわけです。

もう一度「read」の時間を取り戻す

僕はこの「scan」は「知ること」、「read」は「わかること」と重ねて考えました。

内田さんは両方の役割を説明しつつ、現代の日本教育は「read」に重点を置いてプログラムをつくっているけれど、意味を追い求めずただ眺めるだけの「scan」の読書も大切なものだ、という主張をされていました。

学校教育に関してはそのとおりかもしれません。でも、この本が出版されてから10年以上経ったいま、残念ながら大人の「non-read」は加速しているように感じます。

「scan」ばかりが盛んになっているけれど、もう一度「read」の時間を─「わかる」を─取り戻すことに意識を向けたほうがいいのではないでしょうか。

これは読書だけでなく、あらゆる情報に対しても同じです。

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