松浦弥太郎が「教養の圧」から距離を取る納得事情 全方向でインプットしても「わかる」が増えない

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ですから、自分が軽んじられたくないという一心で、「教養を身につけられる」という言葉に飛びついてしまう。知識を詰め込むことに必死になってしまう。

ほんとうにそれほどの知識が必要なのでしょうか。そもそも、インスタントに身につけた「教養」をはたして教養と呼んでいいのだろうかと、首をかしげたくなってしまいます。それはもはや、ただの競争ではないでしょうか。

皮肉なことに、「教養至上主義」が、ほんとうの意味で「考える」ことの妨げになっている気すらしてしまうのです。

「教養」から距離を取る生き方

極端に聞こえるかもしれませんが、エッセイストのような生き方は「教養」から距離を取る生き方かもしれないと僕は感じています。

反教養主義ということではありません。肩の力を抜き、インプットのペースを落とすということです。もっと言えば、ほどよく「あきらめる」ということです。

「理解すること」に重きを置く生き方は、競争に身を置かない生き方です。自分の答えを出すことがなによりも大切だから、「もっといろいろなことを知っておかないと」という声に振り回されない。

教養を押しつけられそうになったとき、あるいは「こんなの常識だよ」と言われたときに、「それについて知らなくても、僕は大丈夫です」と心の中で言える自分でいることが大切だと思います。

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