北野武新作「首」、プロが見た驚きの感想【後編】 「次回作への期待が膨らむ」その納得の理由は?
日本においては、夏目漱石(『こころ』、『それから』など)だろうと小津安二郎(『秋日和』に典型的)だろうと、女性は宿命的に「男同士の絆」の蚊帳の外に置かれるのがつねであった。
北野監督が一貫して回避してきた「シャイネス」とは?
ところで、たけしが『御法度』で演じたのは土方歳三である。ここでも彼は、ホモエロティックな関係の外に置かれていた。
美少年を斬るのは沖田総司であり、歳三のたけしは切断されたホモセクシュアリティーを確認するように、ラスト近くで満開の桜木をぶった切って見せる。
ここに、『雨月物語』(上田秋成)の「菊花の約(ちぎり)」というホモ話が接続されるのだから、阿部定事件(性交中に男性を絞殺、局部を切り取った1936年の猟奇事件)に想を得た『愛のコリーダ』(1976年)の大島渚が、ヘテロセクシシュアルな関係の極点から、どのような方向に舵を切ったかは明瞭である。
その経緯を見届けていた北野武の新作『首』は、大島がホモソーシャリティに回収した主題を、いわばエスカレートする形で男色というテーマの特化に挑んだ。
重要なのは北野監督が、ビートたけし演ずる秀吉を、土方歳三と同様に男色関係の外に置き、セクシュアリティーの乱れや危機の部外者として設定したことだ。
信長(男色ハラスメント)や家康(マゾヒズム的醜女好み)のいびつな性を暴いた北野武は、周到に秀吉のエロス(男色を忌避した性豪で知られる)を封印している。
それこそが、『その男、凶暴につき』以来、暴力の突出によってまともな性表現を一貫して回避してきた彼のシャイネスであり、この作品の肝なのだ。
策に溺れそうで決して溺れることのない、秀吉のシニシズム。
その不気味に冷ややかな表情は、信長役の加瀬亮や光秀役の西島秀俊のように、手の込んだ役作りによるものではなく、精確にプロデューサー不在のこの作品を、孤独に監視する「武=たけし」その人のクールな視線に支えられている。
この「価値ある失敗作」を糧に、さて、彼は次にどんな手を打ってくるだろう。
公開を前にした今月15日の日本外国特派員協会(東京・丸の内)
新境地をひらく快作を期待したい。
*この記事の前半:北野武新作「首」、プロが見た驚きの感想【前編】
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