しかし、法律には服さなければならず、それにもかかわらず、その法律を制定する議員たちも、そのトップの首相や大統領も、信用できない。好きでないどころか、支持すらできない。
不幸にも、19世紀か20世紀前半であるかのように勘違いした君主(あるいは帝国の皇帝)が武力で攻め込んできて、初めて国民国家の枠組みが必要であることを思い出す。しかし、そういう事件のない国の、平和ボケの人々や企業は、国境は邪魔で「なければいいのに」と思っている。国は経済活動を制約するだけの邪魔なものにすぎない。
それにもかかわらず、国民たちは、邪魔でいやなものだと思っている国民国家というものを、憂さ晴らしに(その憂鬱も国民国家という枠組みからきているかもしれないのに)、エンターテインメントの道具として、手っ取り早くストレス発散できる道具として活用している。
オリンピック、ワールドカップを楽しく使って、それが終わったら、首相の文句をいい、国というしがらみなんてなければいいのに、国籍なんて邪魔だという思いに戻る。
「近代資本主義」の本質とは何か
しかし実際には、たまに役に立つと思って利用しているワールドカップのときも、ビジネス権力を持つイベント会社やIOCに経済的に搾取されているだけなのだ。
こう考えてくると、戦争のために国民国家は必要なだけで、それ以外の局面では邪魔なだけになっているのではないか? 人々を不幸にしているだけではないのか?
国民国家とは戦争のための動員手段であるというのは、高校の世界史教科書には出てこないが、それに近い常識であるから、今さらここで強調すべきことではない。
今、重要なのは、戦争以外の国家としての活動の意義を見いださない国民が大多数となっており、彼らはたまに国民のメリットを味わうが、そのときこそ国家君主による戦争への動員と同様に、ビジネス権力者によって搾取される被害が甚大になっていることに気づいていない、ということだ。
この事実こそが強調するように、国民国家という枠組みを利用して、ビジネス権力者が消費者かつ労働者である「国民」と名づけられた市民を搾取するというのが、近代資本主義の本質(の少なくとも1つ)なのである。
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