たとえば、サルトルは『存在と無』において、デカルトによる第2の神の存在論的証明を引いている。
それは、「完全の観念を自己のうちに有する存在は、それ自身の根拠ではありえない」と簡略化され、このことから直ちに「もしそうでないならは、この存在はかかる観念に従って、自己を生み出したはずである」と結論づけている(邦訳『存在と無』ちくま学芸文庫(I)p246)。
このあまりにも不親切な論述を噛み砕いてみますと、「神は完全であるが、その完全の観念を自己のうちに有する不完全な人間存在は、それ自身の根拠ではありえない」となります。
なぜ、「それ自身の根拠ではありえない」のか?と問うと、もしそれ自身の根拠であるのなら、人間存在は「完全の観念に従って、自己を生み出したはずである」けれど、現に人間存在は不完全であるから、「それ自身の根拠ではありえない」というわけです。
個人的で卑近な問題を「神の存在証明」に繋ぐ
このことから、「よって、人間存在の根拠は、それ自身完全なもの、すなわち神であるはずである」と進み、「よって、神は存在する」となるのですが、今回注目したいのは、こうした部分ではない。
むしろ、「完全の観念を自己のうちに有する人間存在が、それ自身の根拠であるのなら、人間存在は完全の観念に従って、自己をすなわち、完全の存在者を生み出したはずである」という命題です。
この命題は普通の現代日本人には意味がわからないのではないか? 文章の(文法的)意味はわかるのですが、サルトルがなぜこのような問題を立てているのか、ハタと膝を打つようにはわからない。これは、まさにロゴス中心主義の典型のような命題であって、だからそれを共有しない極東の国民にとって、とてもわかりにくいのです。
しかし、デカルトの言っていることはとても簡単であって、ここには、「完全の観念を持っている人間存在がそれ自身の根拠であるなら、完全の観念を持っているだけではなく、自分自身が完全になってしまうはずだ」という論理が隠されている。「完全の観念を持っていながら、神のごとく完全にならないことは理不尽だ」と言い換えてもいいでしょう。
そして、こうした発想についていけない人が大部分なのではないでしょうか? その限り、どこまで行っても霧の中を歩いているようで、ビシっと痛棒を食らうようにはわからないのです。
さらに、多くの人がつまづくのは、「自分自身の根拠」という概念でしょう。私は存在していますが、不完全である私は、自分自身の存在の根拠ではないのです。デカルトにとっては、完全な神は自分自身の根拠であり、さらに不完全な人間存在の根拠でもあるのですが、サルトルはこういう方向には進まない。
そうではなく、「人間存在はいかなる根拠もなく存在させられた」という方向に進み、この驚くべき理不尽へ凍るような眼差しを向けるのです。サルトルは、神になりたかったようで、さらに言えば、人間というあり方に絶望し、神であるのでなければ生きるに値しない、と考えていたようです。こうした考えを少しでも彼と共有していなければ、彼が何を問題にしているのかわからないでしょう。
ここで、やっと人生論に繋がります。自分が生まれさせられたことに納得できない人、途方に暮れている人、恨みと怨念を覚えている人……は少なくないと思いますが、哲学とは、(人生論とは異なり)この極めて個人的で卑近な問題を高度に論理的で厳密な神の存在証明(形而上学)へと繋げて考え続ける営みだということです。
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