"極東の国民"にとって「西洋哲学」とは何か 哲学が「思想」でも「人生論」でもない理由

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「哲学は思想ではない」とは、言い換えれば、プラトン、アリストテレス(くらい)から、ハイデガー、デイヴィドソン(くらい)までの西洋哲学のみを扱っている、ということです(西田幾多郎も読んでいますが、彼は、西洋哲学の潮流にそのまま入る)。

すなわち、哲学の終焉とか、ロゴス中心主義批判のごとき「哲学批判」はまったく無視し、ニーチェ、ハイデガー、デリダ、レヴィナスなども、存在論、神学、宇宙論、魂論……という、古典的な枠に入る限りで読んでいくのです。

われわれ日本人(というよりこの私)は、「ロゴス中心主義」批判をする前に、いまだ「ロゴス中心主義」すらわかっていない、と自覚していますので、当塾では、デカルトからカントを経てフッサールまでのごりごりの「ロゴス中心主義(理性主義)」を集中的に学びます。

これは、哲学にまつわる出版界の現状とも、大学や哲学界の現状ともズレていて、その意味でも「たぶんわが国で唯一の哲学をする場所」と言えるのではないでしょうか?

言語や理性に対する信頼なんかまるでなかった

ここには、哲学とは、言語や理性や論理に対する絶対的信頼の上に成り立っている、という私の哲学観が反映しています。古来わが国では、言語や理性や論理に対する信頼なんかまるでなかったのに、「欧米列強」から言語や理性や論理は無限に疑問に付していいのだというお墨付きをもらった瞬間、みな喜び勇んで「ロゴス中心主義」を批判ばかりしている。

どういうことかというと、(超越的)神など生きていなかったのに、「神が死んだ」ニヒリズム的現状を議論している。理性などまったく信じていなかったのに、理性の暴力を論じている。私(自我)など無限に希薄だったのに、超越論的統覚を批判しているわけで、まさに滑稽というほかありません。

ですから、「哲学塾」では、現代日本の思想的状況からすると、一種の転倒が起こっていて、純粋に古典的な哲学観のもとに、デカルトの『省察』やカントの『純粋理性批判』やヘーゲルの『大論理学』やフッサールの『イデーン』といった難解な超一流の哲学書を精密に読んでいるのです。

次に「哲学は人生論ではない」とは、いかなることか? 本塾には「いかに生きるべきか?」あるいは「人生は生きるに値するか?」という問いに関する講義はたくさんあるのですが、漠然と雰囲気的に議論するのではなく、どこまでも「理詰め」で議論する。すなわち、それを、あくまでもキルケゴール、ニーチェ、サルトルなどの古典的哲学書の解読を通じて行うということです。

人生に悩んでいる人は山ほどいて、哲学塾にもたくさん来ます。しかし、私はあえて、厳密な言語、理性、論理という手段で、それに対処するという方法しかとりません(これが精神医学や宗教とは異なるところです)。ですから、厳密な言語を駆使して思考することが苦手な人は、たとえその悩みがいかに大きくとも、哲学には向いていないと言えましょう。

とはいえ、厳密な思考に向いている人が直ちに哲学に入れるかというとそうでもなく、やはり哲学独特のテーマとそのスタイルにのめり込んでいくのでなければなりません。

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