難攻不落の「小田原城が落城」北条氏の2つの誤算 秀吉になかなか臣従しなかった北条氏の最期

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北条氏はなぜ戦の道を選んだのか。名胡桃城の奪取事件があったとしても、北条氏政が早々に上洛して謝罪すれば、戦は避けられたであろう。

それをしなかった理由の1つには、本城・小田原城の堅固さへの自信があったのではないか。あの越後の上杉謙信も小田原城を攻囲したが、攻め落とすことはできなかった。秀吉ごときが攻め落とせるはずはないというおごりがあったのではないだろうか。

また2つめには、秀吉の軍勢は遠く西国からやって来る、いずれは兵糧が枯渇し、兵を退くに違いないとの目算もあったのだろう。持久戦で粘れば、縁戚の家康も加勢してくれるかもしれない。奥州の伊達政宗も我が方に付いて来援、秀吉軍を襲うこともありえるだろう、そうした楽観論が北条氏にはあったのではないか。しかし、北条方の目算は外れた。

秀吉軍には、九鬼・毛利・長宗我部の水軍がいて、大量の兵糧を沼津に運び込む体制を作ったのである。逆に、北条軍は、相模湾を秀吉方の水軍に封鎖されたこともあり、城への補給の道は閉ざされることになる。

家康の厳しい軍法

家康も政宗も、北条氏に加勢することはなかった。家康は小田原への出陣に際し、軍法(15カ条)を定めている。

その一部を紹介すると「喧嘩口論の禁止」「下知なく、先手を差し置いて、物見を遣わしてはならない」「先手を差し置いて高名を挙げても軍法に背いた者は妻子以下も成敗する」「進軍にあたっては脇道してはいけない」「奉行人の指図に従うこと」「派遣した使者の言うことを守ること」「命令がないのに、男女を略奪してはいけない。命令がないのに、敵地の家を放火してはいけない」「勝手に陣払いしてはいけない」「進軍の時は、小旗・鉄砲・弓・槍の順番を決め、奉行を付けて進むこと」「商売・押買・狼藉をしてはならない」というものであり、これらの軍法を守ることができない者は容赦なく成敗すると記されている。

抜け駆けして武功を挙げても手柄にはならず、家族まで処罰するとは厳しい内容ではあるが、戦においては規律こそ重要ということだろう。

さて、小田原攻めの最中には、奥州の伊達政宗も秀吉に帰順してきた。これにより、秀吉の天下統一は目前に迫ったのであった。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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