難攻不落の「小田原城が落城」北条氏の2つの誤算 秀吉になかなか臣従しなかった北条氏の最期

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しかし、氏政の兄弟衆の上洛はなかなか実現しなかった。北条氏の中で秀吉への融和派(北条氏直・氏規)と強硬派(北条氏政・氏照)の対立があったのだ。

閏6月になると、北条氏規の上洛のための準備の兆候が見え始めたが、それでも上洛はすぐには実現しなかった。

7月中旬には、家康は徳川家臣の朝比奈泰勝に対し、北条氏規の上洛を重ねて催促するように命じている。氏規が上洛し、秀吉と聚楽第で対面したのは、8月22日のことであった。豊臣政権は、北条氏は臣従したものと見なし、領土の裁定を下すことになった。

沼田領の引き渡しで、解決と思われたが…

その焦点となったのが、信州の上田城を本拠地とする真田氏が押さえていた上野国沼田領(沼田市)である。

豊臣政権は、沼田城と沼田・吾妻両領の3分の2の領域を北条のもの、3分の1を真田氏に残すことにした。北条氏はこの取り決めに不服であったが、最終的にはこの裁定に従った(1589年6月)。北条氏への沼田領の引き渡しが行われ、事は平穏に進むかに見えた。

ところが、天正17年(1589)10月末に事件が起こるのである。それは、沼田城の猪俣邦憲(北条方)が、沼田領内にある真田方の城、名胡桃城(群馬県月夜野町)を奪うという事件だった。

北条方による城の奪取は、豊臣政権の領土裁定を侵害するものである。北条氏政の上洛を待つのみという状況のなかで起きたこの出来事は、秀吉を激怒させた。秀吉は北条氏を討つ決意を固める。

一方の北条氏は強気の姿勢で、氏政自らが上洛し、謝罪をするということをしなかった。

12月10日に家康は上洛し、秀吉と小田原攻めの軍議を行う。家康は3万騎の軍勢を率い、先陣を務めることになった。天正18年(1590)2月10日に家康が出陣し、秀吉は3月1日に出馬する。

戦は避けられずと見た北条氏は、領国内の要衝・城に一族や重臣を配置し、秀吉軍の襲来に備えていた。北条方の諸城は、秀吉の大軍の前に次々と落城。4月には、小田原城が包囲される。小田原攻めの秀吉方の軍勢は約20万。このような大軍を前にしては、名城といえども持ちこたえるのは至難である。

7月5日、ついに北条氏直は開城し、降伏した。氏直は高野山に追放され、氏政と氏照は自害を命じられた。ここに、北条早雲以来5代にわたって続いてきた北条氏は滅亡したのである。

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