だが、不祥事で「攻めの姿勢」を取れる企業は極めて少ない。現実には圧倒的多数の企業が「守り」に徹しようとし、挙句、その「守り」でも失敗するのだ。
「守り」とは「謝罪会見を開催しないのは責任を果たしていないといった批判を封じる」「メディアが責任者の声を取ろうと延々と追いかけ続けるのにピリオドを打つ」といったことが主な目的だ。今回の日大の記者会見は完全に「守り」そのものだった。
私立大学は理事長が経営を担い、教育や研究は学長が責任を持つという運営形態が一般的だ。民間企業ではまずありえない、「二頭体制」となっているのだ。それゆえ謝罪会見では林理事長も「学内のことは任せていた。それゆえ自身が詳細を最近まで知らなかったのは不適切とは言えない」という趣旨の発言を繰り返していた。
「組織の建前」としてはその通りなのだが、誰も納得はしないのではないか。やはり理事長という単語は「学校法人の総責任者」というニュアンスを感じさせるからだ。
林理事長がもし「攻めの姿勢」だったら…
もし林理事長が今回の謝罪会見を完全な「攻めの姿勢」で挑んだら、どうなっただろうか。
自分が学校全体の責任者であることを宣言し、逮捕直前まで自身に情報を知らされていなかったことを率直に反省、謝罪する。そのうえで、今回の対応の総責任者であった沢田副学長、さらにはアメフト部長の更迭など、厳しい処分を課すことを表明する。加えて、理事会に剛腕で鳴らす著名人を招聘するといった新たな改革構想まで示す。ここまで表明すれば「さすがは林理事長」と喝采を浴びたことだろう。
だが、林理事長はこうした「攻めの姿勢」を取らなかった。「取れなかった」というほうが、正確かもしれない。仮に「攻めの姿勢」を表明したとしても、日大の内部に、「よそ者の林理事長」を支える勢力がおそらく存在しないからだ。
会見で「カッコいいこと」を語ったとしても、現場で実務を担う幹部や職員から総スカンをくらい、結局は何ひとつ実効性のある施策を打てない状況なのだろう。林理事長自身、その現実を熟知しているからこそ、あのような「守りの会見」になったのではないだろうか。
謝罪会見では、メディア慣れしている人々ほど、「対応モード」を切り替えなくてはならないということ。そして、さらに「攻めの謝罪会見」まで行うには、「攻め」の後を支えるだけの裏付けとなる「力」が必要だということ。この両面を改めて感じさせる、日大の謝罪会見であった。
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