日本企業が愛する「極端な品質追求」が国を滅ぼす 品質不良ゼロを求めて費用対効果を完全無視…

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日本の自動車メーカーは自社製品の品質に徹底的にこだわっている。たとえば、自動車メーカーの技術者と出張に行くと、その旅程で乗った自動車のシートだとかインストゥルメンタルパネルの出来だとかドア開閉時の雑音レベルについて仔細な解説をしてくれるはずだ。しかし他商品を購入する際にはそれらの特徴が漂白され、「まあ見られたらいいんじゃない」と一般消費者の感覚に戻る。

本業で行っている品質の追求はなんのためだろうか。品質を上げるのは崇高だし、非難されるべきではない。ただ結局は程度問題ではないだろうか。高品質とはいえないそれなりの品質で韓国などアジアのメーカーは日本を超していった。品質の違いは生産している日本企業自身は理解しているが、お客にとってみるとさほど大きな違いはない。

さきほどの食品メーカーの例がある。これも結局は程度問題だろう。日本人の消費者がわかるところと、気にしないところを分ける。多数がわからないところまで注力する必要はない。

商品に新機能を追加するのは、企業が営業しやすいためだといわれる。「競合メーカーにはない新機能がある」といえば売り込みやすいからだ。しかし、家電専門誌の編集者いわく「機能インフレ」が起きており、誰も使わない付加性能にあふれる。おそらく家電を買って分厚い説明書を読んだことのある人はいないのではないだろうか。

もっとも細部までこだわるのも企業にとって自由だし、逆に品質を抑えてもよく、現在では海外への販路も開かれている。

冷静なコスト計算の欠如

かつて私はアメリカのEC業者と話していてその合理性に驚いたことがある。アメリカの一軒家が続く街並を想像してほしい。その企業では配達のとき、たとえば書籍などを道からぽいっと玄関に投げてしまうという。この話を聞いた当時、日本ではアマゾンなどの置き配もはじまっていなかった。

私は「そんなことをして、雨ざらしになったり、盗難に遭ったりしたらどうするのですか」と訊いた。答えは明確で「代品を送付したらいい。そうしたほうがコストは低い」だった。

この日米のどちらがいいか、これは価値観としかいいようがない。ただ、アメリカ企業は不具合があったとしても、トータルで考える。不具合を事後にカバーしたほうが全体のコストが安価であれば、よしとする。

これはサービスだけではなく商品製造においても同じだ。私はかつて中国の深センにある工場に出張した。同行した日本側の技術者は不良品率を0にするためにあれやこれやと工場ラインに注文をつけた。すると中国側からは「良品率を95%にするのは簡単です。しかし、100%にしようと思えば莫大なコストがかかります。それでもやりますか」と訊かれた。こちら側は「各工程を見直してできるだけ努力しよう」と答えた。

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